2011年3月31日「第二回・気仙沼救援ミッション」

今日はこのはたらきが始まって以来最大の規模で行われたのが、今日の気仙沼ミッションでした。教会員の関係者12箇所、そして今日からやっと定期便の運行が再開された気仙沼大島への物資輸送が加わり、合計13箇所に届こうというプロジェクトでした。このために三台の車を用意しました。広島チームの2.75tトラックには大島行きの物資を、教会車と関西チームのバンには残り12箇所向けの物資を搭載し、総勢15名が参加しました。出発が遅くなりましたが、2時半頃、無事に見地に到着しました。すでに一度、キングスガーデンへの物資輸送ミッションで来ているのですが、今日はあまりにも届ける箇所が多いため、二手に分かれて同時並行で届けました。それに先だって、気仙沼港をざっと見ましたが、K先生は「ここは船の墓場だね…」とポツリと語られました。その通り、見上げるような大きさの船(1000トンクラスもあったと思います)が陸地に乗り上げたり、焼け焦げたりしていました。港に近い家屋はコンクリート製の建物が多いためか倒壊こそ少ないものの、やはり壊滅状態でした。印象的だったのは、地盤が下がったことで「海が異様に近い」ことでした。満潮時・大潮時などは大量の海水が入ってきそうな状況でした。岸壁も、ところによっては海水が入り込んで水に浸かっていました。その海水にもオイルが浮かび、うっすらと異臭を放っています。港の完全復旧には年単位の時間がかかりそうでした。そのような中で気仙沼市内を回る班は、通行止めの道に悩まされつつも、なんとか2時間ほどで任務を終えました。また、大島への物資は、「ひまわり」という本来客船として用いられている船の座席に、荷物を搭載して運んで頂きました。船長のSさんのお話によれば「地震が発生した直後に、船を守るため沖合に出た。やがて山のような津波がやってきた。舳先を波にツッコミながら波を上ると、10メートルの谷に落っこちるような感覚だった。波は何派にも分かれてきた。恐ろしかった」ということでした。このように、船を守ることができた船主の方は、ごく僅かしかいませんでした。このため、気仙沼大島への補給は非常に限られ、地震発生当初1週間は、補給は皆無に等しかったそうです。野菜、下着、カイロ、衛生用品、防寒具、ストーブ、灯油、電池などあらゆる種類のものを船に乗せて頂き、1時間後、「無事に受け取りました!」と、大島の災害対策本部のSさんよりお電話を頂きました。お届けした物資が有効に生かされることは本当に感謝でした。
一方、大谷海岸・本吉の9箇所を回る班は、海岸沿いの荒れた道に悩まされながら進んでいました。がれきが行く手を遮り、併走する線路は押し流され幅10cm程度に縮まっていたり、パンクの恐怖と闘いながら、3時間を費やしてようやくmission completeとなりました。途中千厩(せんまや)で合流して帰仙したメンバーには、心地よい疲労が漂っていました。ボランティアスタッフ9名は翌日早朝に旅立ちです。本当に良き働きをして下さり感謝でした。
この日、もう一つ驚いたことは、一関インターチェンジのすぐ近くの給油所が夜半にもかかわらず営業しており、なおかつ給油待ちの行列が10台ほどしかなかったことです。同じ日に仙台ではまだ500メートルは並んでいただけに、なおさらおどろきでした。地方中核都市の中でも人口が比較的少ない所では、もう燃料事情はすっかり平常に戻って来たように思いました。但し、足元を見られていたのか、1リットル166円とベラボーに高価でしたが・・。

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