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1999年12月12日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 マタイによる福音書1章18〜25節
 牧師写真メッセンジャー
  仙台福音自由教会
  吉田耕三牧師

アドベントも第3週に入って参りました。先週、先々週とクリスマスに関するメッセージをお話してきました。 本日はその3回目になります。

『クリスマス』を私達は当然の様に与えられたと思いがちでありますが、実はそうではなく、そこに様々な方が携わり、そして信仰による献身と従順によって、この御業が成し遂げられていったということを覚えさせて頂きたいのであります。 そしてその中から私達もクリスマスの深みにいよいよ触れていく者でありたいと思います。

ヨセフの従順とマリヤの献身

私達はクリスマスと言いますと、マリヤとヨセフが定番のように出てきま。この二人をただ素晴らしいと見るのでありますが、実はここには大きな戦い・大きな試練があったという事を覚えていただきたいのです。  当時「処女がみごもる」という事がどういう意味を持っていたか? もし、許婚がありながら、別の人の子供を宿すという事は、当時のイスラエルの法律、つまりモーセの律法によりますと、即刻石打ちの刑、つまり死刑となることを意味していました。 マリヤは神様の子供を宿したのですが、普通の人はその様な事を信じるはずがありません。 となれば、非常に恐るべき処罰があると言わなければならないのです。

実は『クリスマス』、つまりイエス・キリストの誕生は聖書の様々な箇所に預言されていました。 何百年も何千年も前から事細かに預言がなされていたのです。
「ユダ部族の中から生まれる」。
「ベツレヘムの町で生まれる」。
色々な事が書いてありました。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生み、その名を『インマヌエル』と名づける」 イザヤ7章14節

「処女から生まれる」とあります。信じがたい出来事でありますが、逆に、もしその「絶対にあり得ない事」が起きたならば、それこそが正しく彼がキリストだという事だといえるでしょう。 マリヤは神の御告げ、神の預言に応えた訳です。 けれども、現実を考えますと、大変に厳しい事でした。 婚約中でありましたが、一緒に夫婦としての生活をしていない訳であります。 もしその期間に子供が出来たというだけでも、非常に恥ずべき事と部分がありました。 彼等の場合は、ヨセフに覚えがない訳ですから、子供が宿ったという事はどういうことになるのでしょう?

これは当時の社会においては明かに死を覚悟しなければならないのです。 それが聖書の中にはっきりと書いてあるのです。 そういう女性は石打ちの刑に処せられなければならないと書いてあります。 ヨセフは、
「この清純な乙女マリヤがその様な過ちを犯すようにはとても見えない。」
と思ったことでしょう。
しかし否定しようのない事実がそこにある訳です。 本来ならば、死刑に処せられる程の重罪です。 でもこの優しくて、清純な乙女マリヤを死に落としめる事が彼は辛くて出来ない。 そして、別の方策を考えたのです。

婚約中にその様な事があるならば、死刑という事になるのですが、『離縁』、つまり婚約がなかったことになるならば、その女性は不道徳な女、不品行な女とは言われますが、生きていくことは許されるのではないか?と考えた訳であります。 しかし、まさにその時に神様は彼に現れてくださいました。

皆さんなら、神様が夢に現れて、
「マリヤに宿っている子供は聖霊によるのです」
と言われて、それを信じる事ができますか? その直後は信じたとしても、その先ずっと信じ続けることが出来るでしょうか? ヨセフは御使いが命じられるままに従ったのです。 その事を信じてそこに立ち続けた訳であります。 これは簡単なことではないありません。 常に疑いや猜疑心が出てくると思うのですが、これらを捨て続け、そして信仰に立ち続けるというのは思うほど簡単ではないのです。 
そして、マリヤにしても命が掛かった言葉なのです。 正しく命がけの決断。 そしてこの二人の従順と献身の中に神の御業が現れた。 マリヤは命を捧げ、ヨセフは疑いが出て来ても、その疑いを信仰によって立ち切ったのです。 『クリスマス』それはこの様な献身と従順の中で成し遂げられた御業であった事をしっかりと心に留めておいて頂きたいと思うのであります。

御子イエス・キリストの従順と献身

いかにマリヤ、ヨセフが献身と従順に神に応えたとしても、来てくださるイエス・キリストがおられなかったら、クリスマスはもちろんあり得なかった訳であります。

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従う全ての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」 へブル人への手紙5章8〜10節

本当の献身。 命を掛けた歩みと従順があったればこそ、私達に救いの道が開かれた事をしっかりと覚えさせて頂きたいのです。 イエス・キリストはこの地上に来る前からそれがどんなに苦しい事であるかを全部判っていらっしゃいました。 でもなおその道を選んでこの地に来てくださった。 驚くべき献身ではないでしょうか?

彼は地上で馬鹿にされ、罵られ、唾を吐きかけられ、頭にいばらの冠をかぶらせられて背中を棘のついた鞭で打たれ、本当に苦しみました。 その事を初めから全部判っていたんです。 しかし、苦しみを受ける事を覚悟して地上に降りてきてくださったはずなのに、実際にそれに直面した時に、父なる神に向い「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになるんですか」と叫んでいます。 これはどういう事でしょうか?

にここに正しく救いの真髄があるという事なのです。 私達はどんなに神様が自分から離れたと思っている時でも、実は共にいてくださいます。 私達が気付かなくても神様は共にいて下さる。 でもイエス・キリストは違ったのです。 十字架に付けられたイエス・キリストは父なる神からも見捨てられました。 徹底した罪の裁きが彼の上に投げ込まれました。 彼は人々から捨てられ、馬鹿にされた。 それも苦しかったでしょう、けれども、本当に深い愛の交わりにあった神様から完全に捨てられるというこの苦しみ程辛かった事はないのであります。

それを前にして「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになるのですか」と叫ばざるを得なかった。 それは、イエス・キリストが完全に神様から捨てられたからなのです。 でもそれはイエス・キリストが私達の身代わりとなってくれたから、捨てられたのです。 身代わりとならなければ、捨てられる必要はなかったのです。

彼の大きな痛みと犠牲と献身、また従順。 私達はこの救いを受け取る時に、このキリストの姿に倣う者となりたいという思いが出てくるのであります。 キリストは神であられたにも関わらず、その神の権威と特権を何一つ得ようとはしなかった。 そして十字架の死にまでも到って下さった。 それは私達が罪を離れて義の為に生きるためだと聖書は語ってくれます。

キリストはまた私達が模範とするようにとこの道を歩んで下さったとも書いてあります。 あなたの為に命を掛けて下さったキリスト。 命を捨てるまで従順に従ってくださったこのキリストを受け止めさせて頂きましょう。 その大きな犠牲、その大きな愛を心一杯に受け止めさせていただきましょう。 キリストが受けて下さったその犠牲の大きさ、模範して歩んでくださったその道。 それが私達の前にもはっきりと現わされてくるのではないでしょうか?
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