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2000年1月30日 日曜礼拝メッセージ



 旧約聖書 創世記41章1〜45節より
牧師写真
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

 本日はヨセフが囚人として監獄にいた身からエジプトのナンバー2の位に至る道を見たい訳であります。 そこに神様の大いなる憐れみ、導き、ヨセフの資質というものがあったように思うのであります。

神の時への備え

 『2年』と口で言うのは簡単ではあります。 日にちにすれば730日でしょうか。 でもヨセフは、エジプトに売られて11年間が経っています。 そして更に2年間待たされるということは結して短い時間ではなかったと思います。 前回学びましたようにヨセフは一つのチャンスを得たかに思えました。 ヨセフが投獄されていた牢獄に王付きの献酌官長が投獄されて来ました。 献酌官長がある晩夢を見、ヨセフがその夢の解き明かしした通り、彼は投獄から3日後に釈放され、元の地位に戻されました。 その時にヨセフは「王の元に帰ったら、是非私の事を思い出して下さい。自分をここから出して下さる様にお願いをして下さい。」と一生懸命念を押したと思うのですが、献酌官長はそのことを忘れてしまいました。 「この時こそっ!」と思ったヨセフの願いもまた挫かれてしまいます。 しかしそれから2年の後に事が起きました。 神様はヨセフを忘れたり、見捨てたりしたのではありません。 それどころか、正に"神の時"に向かって着々と全ての事を整え、今やその時がきたらんとしていた訳です。

神の訓練からの賜物――謙遜

ある日エジプトの王パロが不吉な夢を見ました。 「一体何なのだ?」と思う様な忘れられない2つの夢を見ました。 国中の呪法師、占い師に夢の解き明かしをして、意味を説明する様にというのですが、誰も解き明かす事が出来なかった時に、献酌官長があの2年前の出来事を思い出した訳ですね。 早速パロはヨセフを召し上げて、パロの前に出てくる事になります。

「パロはヨセフに言った。『私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについえて言われることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが』」15節

「ヨセフはパロに答えて言った。『私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。』」16節

 もし皆さんだったらこの時に何と答えるでしょう? 『それほどでもないですけど……』とか言うのではないかと思うのですけれども。 ヨセフはきっぱりと自分の力とか、自分の能力を出してはいないのです。 "自分は一介の人間にすぎない。それは神のする事だ。"と神の物は神の物として栄光をお返ししているのです。 ヨセフが17歳の時に見た夢を兄弟達に偉そうに話した時となんと違う事でしょう。 かつてのヨセフは高慢な人物でありましたが、13年間を通して、彼は本当に砕かれて、謙遜に自分は一介の罪人に過ぎない、弱い人間に過ぎない事を認め、全ては神の栄光であると言える者に変えられていった訳です。

 私達はどうでしょうか? 自分に何か良い事や何か変わってくる事があると、自分が偉くなった様な錯覚をしてしまう事がありませんか? 「何か私も変わってきたな。 何故皆、そんなにコセコセしているのかな」とか「何故そんなに人のことを裁くのかな?」 なんて、自分のかつての事を直ぐに忘れて、人の事を裁いたりですとか、人の事をとやかく言ったりする者になってしまうのではないでしょうか? 私達は良き事は神様の憐れみ、神様の恵みにすぎないという事を決して忘れてはならないのです。

 "良き事"が出来るのは神様が憐れんで下さったからです。 ですから時々神様は皆さんの心を掻き回す時があるのです。 不機嫌にさせる状況を作って、「あら、こんなに怒るはずはないのに」と思うのですが、神様は「そうではないよ、あなたの本質はこうでしょ」と示されるのです。 そんな時にどうしたら良いか? 「あー、そうでした。 これが私の本質です。 私はちっとも立派になったのではありません。 これが私です。 良き時はただ神様の憐れみ、恵みがあるにすぎません」とこう答えるべきではないかと思います。
 私達はともすると自分がどの様な者かも忘れてしまう。 「自分はそんな者であった。 どう言われようと仕方のない者。 表面上は隠していたとしても、本質的には弱さを持つ者。」 それを直ぐに忘れてしまって、自分があたかも良き者であるかの様な思いになってしまう事があるのではないでしょうか? ヨセフはどんなに良き業が出来たとしても、『それは神のなさる事です。 私ではありません』とはっきりと言うことが出来ました。 私達はこの神の恵みと自分というものを取り違えないようにしたいと思います。

御言葉を実行する者

 ヨセフはパロの夢の解き明かしを始めました。 彼は夢の解き明かしをして、その後の対処策も語っています。 ただ意味だけを語るのではなく、それに対しての対応策も語ったのです。 私達はともすると、聖書の言葉や説教を聞いて、納得して終わりにしてしまう事がありませんか? 私達はそれを自分の生活にあてはめるという事がどんなに大事かという事を覚えたいのですね。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。 こういう人は、その行いによって祝福されます。」 ヤコブの手紙1章22〜25節

「あーそうか、あーよかった!」だけで終わりではなくて、その御言葉をあてはめるという事が必要であるという事なのです。 自分の生活にあてはめる事が出来てはじめて、その御言葉が生きてくる、御言葉を自分にあてはめるという作業を忘れないで頂きたいのです。

へりくだる者ほど高く上げられる

 王に誠実に、正直に伝え、その後の対処策までも伝えました。 その時に、エジプト王はこれ以上の人物は他にはいないと悟り、こうしてエジプトのナンバー2の地位についていく訳であります。

 ヨセフは素晴らしい地位が与えられましたが、結して高慢になってしまう事はありませんでした。 いつも「私ではありません。 神が」という姿勢を貫いたのではないかと思うのです。

 私たちの神イエス・キリストは神であられたにも関わらず、その神のあり方を捨てる事が出来ないとは考えないで、仕える者の姿をとり、十字架の死にまで従う奴隷となってくださったのです。 十字架の刑罰までも受けてくださったのです。 神様はこの様にへりくだる者を高く上げてくださいます。 人を出し抜いても、人を打ち叩いても、人を引きずり下ろしても『自分を高く上げよう』それがこの世の哲学・考え方であります。 しかし聖書は「へりくだりなさい。 下がりなさい」と語っておられます。 私達の「へりくだり」はと言いますと、正直になればいいのです。 「私は本当に罪人の頭にすぎません。 弱い愚かな者にすぎません」と主の前に出るだけでいいのです。 その時に神様は、私達を高くあげて下さるのです。

 「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜る」というこの世とは全く逆の考え方がここにあるのです。 神様の前では低く、低くして行く時に神様が否応無しにその人を高くしていくというのです。 これが神様の方法です。 私達は自分を高くしていくのではなくて、神の前にいよいよ低くして行きましょう。 その時にこそ神様はその人を高くしして下さるのですね。 低くなっていくのに高くされていくこの様な恵みを頂くお互いとされていきましょう。
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