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「労苦を忘れさせる神」

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2000年2月6日 日曜礼拝メッセージ
創世記41章46〜57節
牧師 吉田耕三

私達の人生の中には、悲しい事や辛い事、嫌な事等たくさんあります。私達はそれらに対してどの様な対処しているでしょうか?それをきちんと対処していない為に、その事柄をずっと引きずってしまう。そしてそれがその人の人生全体にまで影響を及ぼすということもありうるのです。私達は過去の事柄を"フタをする"という形で処理をしている事が多いかと思うのです。いつまで考えても仕方が無いから"フタをする"。しかし本当の処理ではないので、フタをしたつもりでも、いつの間にかフタが開いて、出てきてしまう。それが私達の人生を傷つけ、痛めるという事がある訳であります。今日、私達はここから神様によってその様な過去に対処させて頂いたヨセフの姿を通して、私達もその様な恵みに共にあずかっていきたいと思います。

労苦を忘れさせる神

私達は苦しんでいる時には「なんと長いのだろう、いつまで続くのだろう」と思いますが、ヨセフの場合は13年でした。結して短くはないのですが、これで彼の人生が台無しになってしまった訳ではありません。そればかりか彼にとってのこの13年は、彼の人生を豊かにさせた時であった事を思うのです。高慢だった17歳のヨセフはこの13年の苦しみを経て謙遜な者に変わっていったと思うのですね。そしてエジプトのリーダーとして、労を惜しみなく全土を巡り歩きました。神様はその業を祝福してくださった訳であります。この時にヨセフは2人の子供が与えられました。ユダヤでは自分の思いを込めて名前を付けます。最初の子供の名前は"マナセ"。「神が私のすべての労苦と私に父の全家とを忘れさせたからである(51節)」と付けました。この年月を通して神が彼に「私の全ての労苦と私に父の全家とを忘れさせた」のです。彼にとってイスラエルでの家族との生活、父親にかわいがられた生活は忘れられない生活であったでしょう。私達はついつい昔の事を思い起こして、そこから断ち切れず、「昔は良かった」とその事を断ち切れなくなってしまう訳でありますが、神様は"それを忘れさらせた"というのです。今日学ばせて頂きたいポイントはここにあります。神様はあなたがたの労苦を忘れ去らせる事が出来るのです。

でも果たして本当にその様にされているでしょうか?私達は本当の解決ではなくて、"フタをする"という形においてだけ、過去の事柄を乗り越えたかの様に思っている場合があるのではないでしょうか?しっかりフタを閉めている時は良いのですが、少し気を許すとフタが開いて汚い物がでてくるのです。私達が通って来た悲しみ、苦しみ、痛みは神様が癒し忘れさせる事が出来るのであります。神様による本当の解決というものをしっかりと受けていきたいのです。ではどうすればいいのでしょうか?

神が癒してくださる

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ人への手紙

4章6〜7節

私達は心の中の事を覆ってしまって、それで解決したと思っているのです。これは本当の解決ではありません。それを神様の前に出す事が大事なのです。私達は本当の自分の痛みを神様の前に出す必要がある。他人に出しても意味が無いのです。気休めになるかもしれませんが、そこに解決は無いのです。神様は癒す事が出来るのです。

「しかし彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ書53章5節

イエス・キリストの受けた傷により私達は癒されたのです。神様は私達の心の傷をご存知ですし、痛みをご存知です。そしてそこに癒しをなさる事が出来るのです。神様はあなたの心の傷に触れる事ができるし、癒す事が出来るのです。

私達は、どこまでその事を求めているでしょうね?求めても仕方のない場所に求めているから、解決がつかないのです。本当に解決できる方「神様」に、もっと真剣に、積極的に求めていくべくきではないでしょうか?

苦しみから祝福へ

そして彼にはもう一人子供には"エフライム"

という名前を付けた。「神が私の苦しみの地で実り多い者とされた(52節)」からであると彼は語っているのであります。ヨセフはこの地で非常に祝福された訳です。王の次の位につくものとなった訳です。神が豊かに祝福された事を思う訳であります。彼はそれを『苦しみの地で、実り多い者とされた』とこう言っているのであります。私達は過去の出来事を忘れ去らせて下さる神様に出会う事が第1であります。更にその苦しみや労苦が益となる、それを実り多き者とされていくという確信に導かれていくことが大切ではないかと思うのであります。ヨセフは「確かに苦しかったけれども、この13年間が私にとって実り多い人生の基であった」と感じていた事でしょう。私達もこの確信にまで到らせていただく必要があるのですね。忘れる事が出来ない心の痛みや汚点というものを私達は、抱えているのではないでしょうか?そこに神は癒しを成す。癒しを成すだけではない、それを益にする事が出来るのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節

神様はあなたの過去の出来事を、益にする事が出来る。この確信にまで到らせて頂く事が大切なのです。「あの様であれば良かったのに、こうであれば良かったのに。何故こうなってしまったのであろう、あの様になってしまったのであろう」と悔やみ、過去を精算出来ず悩んでいる事が多い。でもそうではない。私達のその様な全ての出来事は益となるのです。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」ヤコブの手紙1章2〜4節

私達は様々な出来事を通して、変えられ訓練されていくのであります。あの高慢だったヨセフは、謙遜で、柔和で、他人の心を知る者となりました。私達が出会う様々な試練、苦しみというものが、忍耐を生じさせ、それは私達を完全な者へと導こうとさせてくださる神様の業であるという事も受け取るべきだと思います。その時に私達は本当に祝福された者に変えられていくのであります。

神様はあなたの過去、苦難や心の傷を癒す事がお出来になるのです。イエス・キリストが流された血潮はあなたを癒す為の血潮だったのです。そしてあなたのその傷はイエス・キリストによって本当に変えられるのです。どんなにそれが大きな罪であろうと、汚点であろうと呪いであろうとその全てを打ち破る力がこの十字架にあった事を覚えていただきたい。神様は癒す事が出来る。

第2番目に神様に正直に惨めさ、悲しみ、弱さ、痛みを告白しましょう。神様はそれを解って下さり、そこに平安を与えてくださいます。そればかりか、その事柄が益とされるという約束も期待し待ち望みましょう。あなたがどんなに苦しい事であっても神様はそれを益とする事が出来る。あなたが与えられないのは、求めないからです。与えられるまで真剣に求めていきたいのであります。過去の事柄ばかりではなく、現在においても神様の恵みにあずかっていきましょう。

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