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2000年2月20日 日曜礼拝メッセージ



 旧約聖書 創世記43章1〜34節より
牧師写真
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

 私は常々、「聖書は正直な書物だなァ」と思っています。 偉人の伝記ならば、素晴らしい事を中心に記述するのに、聖書は良い部分も悪い部分も同じように書いてある。 逆に悪い部分の書いていない人物はいないのです。 例えば、聖書全体を通して賞賛されている人物のモーゼ、アブラハム、ダビデも、皆多くの欠点が記してあるのです。 今日のヤコブもまた、私達と変わらない自分勝手な姿を見せるわけであります。 

ヤコブの決意

「彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。 『また行って、私たちのために少し食糧を買ってきておくれ。』 しかしユダが父に言った。 「あの方は私たちをきつく戒めて、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない』と告げました。」 2〜3節

 兄弟達がエジプトからカナンに帰って来る時にヨセフからこのように言われました。 父ヤコブにはこの事はきちんと伝えてあったはずです。 ヤコブは嫌な所は聞いていないふりをして、都合の良い所だけとりたい。 日毎に穀物が減ってくる、底が見えてくるわけです。 そこで『買ってきておくれ』と言うのです。 しかし、ユダはそんな簡単な情況ではないと言うことをもう一度はっきりと伝えます。 その時のヤコブの返答は、

「そこでイスラエルが言った。『なぜあなたがたにもうひとりの弟がいるとあの方に言って、私をひどいめに会わせるのか。』」6節

 ヤコブは「何故そんな事をしたのか!」と人を責めるのです。 これはまさしく私達の特徴でもあるのではないかと思うのです。 自分がどうも上手くいかないと、周りに八つ当りをしてしまう。 ヤコブも同じです。 "ワガママ坊主"という表現がぴったりする彼の姿ではないでしょうか。 

 さて、これに対してユダは『お父さん、ベニヤミンを連れていかなければだめなんですよ。 本当に、私がどんな事をしてでも、彼をあなたの元に無事に帰すように、命をかけて私はそうしますから、彼を共に行かせて下さい』という返答をします。 しかし父ヤコブはこれまでなかなかその事を聞き入れ来なかった訳でありますが、この時父イスラエル(ヤコブ)はユダの言葉やその状況に動かされたからでしょうか、次の様に行動を起こします。 その地の名産、良き物を贈り物として携えさせます。 前に行った時に返されていた銀もちゃんと返しておこうと知恵を働かせて二倍分持って行かせました。 そしてついに末子ベニヤミンを共に行かせることを了承したのです。 彼は次のように語ります。

「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。 そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。 私も、失うときには、失うのだ。」14節

 ここで大事な事は『わたしも失うときには失うのだ』と言えたヤコブの変化です。 ヤコブの中でやっと自分の中での"けじめ"といいますか、"区切り"が付けられたのではなかったかなと思うのです。 なかなかこの決断が出来なかったが、この時にやっと末子ベニヤミンを手放すという決断が出来たのであります。 

神様のお取り扱い

 今日の第1ポイントは、ヤコブを通してなされた御業(みわざ)についてです。 この43章には、みなヤコブの呼び名が"イスラエル"と書いてあるのです。 前の42章には"ヤコブ"と書いてあるのですが、この章に来て"イスラエル"と名前が変わっていますね。 ヤコブの改名の経緯はは創世記32章に記されています。 32章28節で、神様から「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。 イスラエルだ。」と言われたのです。 ヤコブの生涯を見る限り、あまり変わっていない部分も多くあった様に思います。 神様は私達をも様々な意味でお取り扱い下さる。 神様のお取り扱いの方法として、2通りあります。 

 はじめの方法は、《御霊(みたま)に満たされる》という方法です。 もし私達が自分の罪を正直に神様に告白して、イエス・キリストの十字架がその罪を赦してくださる事を感謝しますと、"赦し"を信仰によって受けとめ、御霊に満たしてくださいと神様にお願いするならば、神様はその時から私達の心を変えていくのです。 "御霊の満たし"、これこそがクリスチャンがクリスチャンとして生きていく上でどうしても必要な事であります。 しかしこの"御霊の満たし"による方法では、もし人の中に罪が再び入って来てそのままにしておくと、直ぐに元の姿に戻ってしまう、という性質があります。 

 第2番目は《自我が砕かれる》という方法です。 そして今日ヤコブの姿から見てきたのは、この"砕かれる"というお取り扱いの方法であります。 神様は私達もこの砕かれるという方法において、私達を完全に変えようとしているのであります。 この方法によって、さらに祝福を受けるには何が必要でしょうか?

神を第1とする姿勢

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分の命を失った者は、それを自分のものとします。」マタイの福音書10章37〜39節
「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。 わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。 今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、父、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」マルコの福音書10章29〜30節

 神様に従う者の歩み、神様の祝福に歩む者の第1ステップとして、何よりも神を愛するということが求められているのです。 神以上に愛するものがあるならば、それを委ねるという事を神様は求めておられる。 そのことを知って頂きたいと思います。 私達の信仰生活においても、神様が第1になるか、或いは別の物が第1になっているかによって、その人の信仰生活の祝福が随分変わってくるのです。 

 だから神様は敢えて苦しみと思える様な事を通して、『それを委ねなさい』と迫る事がある訳であります。 神様はヤコブに対し、『私のしもべに相応(ふさわ)しい者はまずそれ(ベニヤミン)を委ねなさい。 そうでなければ、しもべとして相応(ふさわ)しくないのだ』と言いました。 そして一切を委ねた時に神様は彼を、何倍もの祝福を受ける者とされたのです。 私達が神以外のものを大事にしてしまう時に、私達はそれによって縛られてしまうという事があるのです。 

 その反対に私達が一切を神様に委ねていく時に、本当の自由と解放が与えられていくのだという事も学びたいのであります。 

 ヤコブの『わたしも失うときには、失うのだ』という言葉。 「神様がそれを良しとするならば、それはそれで良し。 受け取っていこう。」という決断がにじみ出ているではありませんか。 なかなか出来ない事ではありますけれども、でもこの決断が必要ではないかと思います。
 ヤコブにとってはベニヤミンでありました。 ある人にとっては名誉であるとか、お金であるとか、地位や財産であるとか、人であるとか、物であるとか。 神様はそれを「神様の手に委ねなさい。 あなたが「これだけは放せない」と思っているそれこそが、逆にあなたを苦しめ、祝福を妨げているのです」と言っていらっしゃるのではないでしょうか。 そしてそれを本当に委ねきった時に神様は本当に幸いな道を備えて下さっている。 その事を聖書は私達に語りかけて下さっているのではないかと思うのです。 

主に帰る

 そしてまた別の視点に目を向けたいと思います。 ヨセフは弟を見た時に、即座に兄弟達を自分の家に招き食事を用意させました。 ところがここで兄弟達は招かれたことで逆に不安になり、いろいろと言い訳をするのです。 私達もしばしばこの様な事を神様にしてしまっているのではないでしょうか? 神様は『もう赦しているよ。 その様な事は気にするな』と言っているのに、一生懸命に必要のない、言い訳や弁解や恐れを持っていることが案外あるのではないでしょうか? 私達の内にある"罪責感"が素直に神様の前に出るのを妨げていることが結構あるのではないかと思います。 

「主を求めよ。 お会いできる間に。 近くにおられるうちに、呼び求めよ。 悪者はあのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。 主に帰れ。 そうすれば、主はあわれんでくださる。 私たちの神に帰れ。 豊かに赦してくださるから。」イザヤ書55章6〜7節

 ちょうどベニヤミンを連れて行き、彼等が豊かに受け入れてられた様に、神様は私達が神様の元に帰るのを待っておられるのですね。 私達がどんな弱さ、愚かさを持っていても、「こんな私です」と抱えて返って来ることを待っていて下さる。 神様は豊かに赦して下さるお方です。 時には冷たくあしらわれている様に思える時があるかもしれませんけれども、その時ですら神様は私達をじっとこらえて、見ておられるのですね。 私達が神様の元に来られるのを待っておられるのですね。

 あなたの生活の中に「何故こんな苦しみが続くのであろうか?」という思いがあり、いよいよ自分の中で苦しみが増し加わり、神様に祈れば、祈るほど苦しみが増し加わってくる。 その様に思える時があるでしょうか? だとするならば、神様は今あなたをもヤコブの祝福へと導こうとして下さっている。 私達は砕かれて、神様に従っていく者とされていきたいのです。 その為に今あなたの内に何かの苦しみをおいておられるかもしれない。 だとするならば、あなたに必要なのは『私も失うときには、失うのだ。 神は決してそれを悪いようにはなさらない。 失うべきなら失うのだ。』こう覚悟して立つ事ではないかと思うのですね。 その時に実は豊かに神様の祝福が注がれていく。 そして100倍もの神様の恵みが与えられる訳であります。 

 神様は、「神を第1にしていく者」を決して見捨てられることがありません。 私達は神を第1に求めなさいこのメッセージを共にしっかりと受けていきたいと思います。 ヨセフを通して神様がなさった様に、一人、一人の歩みの中にも私達を造り替えようとする本当の祝福、本当の喜び、本当の希望と自由に導く為に、様々な出来事を起こしておられる事を見る訳であります。 私たちのうちに起こる様々な出来事を通して、砕かれていく者になっていきたいと思います。 そしてまた、神様は決して悪いようにはなさらないという事を、今日の聖書箇所に登場した、ヨセフの兄弟達が味わったように、私達自身もも味わっていくものとならせていただきましょう。
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