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2000年4月9日 日曜礼拝メッセージ



 旧約聖書 創世記49章1〜33節より
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 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

「聖書はどうも分かり難い」と思う方がおられますでしょうか。 今日の箇所もそうかもしれません。 ただ読んでいくと、「自分とは関係のない事」として読んでしまう危険があるかと思うのです。 しかし聖書は「私達自身へのメッセージ」として学ぶ必要があるのであります。 パリサイ人に対して語られた言葉、律法学者達に対して語られた言葉、罪人に対して語られた言葉、それらは他でもない私達自身に語られた言葉です。 そしてそれを教訓として、戒めとして学んでいく事が大切ではないかと思います。 

ヤコブの祝福

ヤコブは死に際して12人の子供達をそれぞれ祝福していきます。 
長男のルベンは父親ヤコブの妾(めかけ)と性的な過ちを犯した為に、本来受けるべき長子としての祝福を失ってしまいました。 
次男シメオン、三男レビの二人は、シェケムの土地の人達を騙して皆殺しにしました。 
ヤコブは子供達を「祝福」したのでありますが、内容から見るならば、ルベン、シメオン、レビに関しては、「呪い」といっても良いようなものであります。 そして事実シメオン族は急激に人口を減らしていきます。 レビ族は神の祭司として、自分達の土地を所有することはできなかった訳です。
ヤコブはある意味、神から言葉を頂き、そして預言をしていたと思われます。 

 私達はこのところから、何を学ぶべきでありましょうか。 私達は『戒め』をここから学ぶべきであります。 「これは私達に語られた言葉ではない」と読んでしまうなら、何も学ぶことが出来ません。 でもこの弱さは"霊的イスラエル"である我らの内にもあるという事であります。 神様は私達を『祝福の基』と定められました。 けれでも、私達は自らの奔放な生き方は決して神の前に祝福の基となっていくことはないという事、そして"自らの心を治める"という事を学びとっていく必要があるかと思います。 

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」箴言16章32節

 私達の中に出てくる欲望や怒りという感情を、一生懸命それを押さえよう、押さえようとするとかえって欲望や怒りが増してくるという経験をした事がないでしょうか。 どうしたら私達はその心を治めることが出来るのでありましょうか? 

「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」ヨハネの手紙第I 1章9節

私達に必要なのは、自分の罪をゴマかす事でも、偽る事でも、隠す事でもありません。 そうではなくて正直に自分の中の弱さを告白する事なのです。

「私の中にその弱さがあるのです。こんな弱い私を憐れんで下さい。」

この様な告白こそ私達の心を治めさせて頂く秘訣ではないかと思います。

『もし罪がないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。』ヨハネの手紙第I 1章8節

とこう言われています。 弱さを正直に認める。 ここに私達がそれらのものを治めていく秘訣がある事を知って頂きたいのであります。 

ユダへの祝福

次に四男ユダはもともと弟ヨセフを売り飛ばす仲間の一人でありました。 神の民からずれていく事も多々ありました。 けれども、彼の心はもう一度新しくされました。 彼は末弟ベニヤミンがエジプトで捕らえられ奴隷にされそうになった時に自分が身代わりになるから弟を父親の元に帰してくれ、と懇願します。 一旦は神から離れ、不信仰な歩みをした彼でありましたが、もう一度神の前に悔い改め、神を信じる生き方をする事が出来ました。 末弟ベニヤミンの為に自らの命までも捧げて奴隷となるという大きな犠牲。 それはあのイエス・キリストの犠牲に似てはいないでしょうか。 
或いは、

『だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』マタイの福音書16章24節

といわれたその歩みに似てはいないでしょうか。 
神様はいったんは神から離れた者でも、もう一度豊かに祝福して下さる方だという事を是非覚えて頂きたいのです。 シメオンの長子の権利(祝福)は十一男ヨセフに移ったと書かれてあります(歴代誌5章1節参照)。 しかしながら、ユダの末裔から『救い主』が誕生するという大いなる祝福にあずかったのです。 こうしてユダを子々孫々に到る祝福の基として下さったのです。 

ヨセフへの祝福

他の子供達もそれぞれヤコブが祝福を与えていきます。 そしてそれが全て現実のものになっているのであります。 最初の三兄弟のように、呪いと思われるような言葉が語られる部族でさえも、12部族の一つです。 彼らは神の民の一つとして選ばれているのです。

皆さんは自分は教会の一員にふさわしくないと感じた事はありませんか? 心が神から離れ、神様に喜ばれることなんか何も出来ない自分はいても、いなくても良いと思っていませんか。 神様はその一人、一人をしっかりと覚えておられて、神の家族として受け入れて下さっているのであります。 私達が落込んで、神様から遠く離れていると思える様な時さえも、それぞれに相応しい祝福を与えて下さっています。

ヨセフの上には溢れるばかりの祝福が注がれました。 しかしながらこの約束も紀元70年にイスラエルの滅亡として祝福は絶たれる訳です。 そしてこの祝福が『霊的イスラエル』と言われる私達の上に注がれている。 私達は神の祝福を担う者として、これら聖書の御言葉を私達に語られて言葉として受け取っていきたのであります。 

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」ガラテヤ人への手紙6章7〜9節

 神の祝福は注がれています。 だからといって好き勝手に歩んで良いのではありません。 私達は自らに与えられているこの生き方を吟味していきたい。 肉の欲望のままに歩むのではなく、御霊に心を占領していただき、神様のご支配によって喜んで従っていく恵に導かれたいのであります。 

永遠の祝福に加えられる

最後にヤコブは子供達に、「自分の遺体はエジプトに置いておいてはならず、必ず故郷カナンの地に祖先達と共に葬るように」と約束させます。 神はアブラハムに大いなる国民とすると約束を与えていました。 そしてヤコブはその祝福に加えられる希望を持ち、祖先達と共に眠り天の故郷を待ち望んだのです。

私達は、地上の物に目が眩まされて『永遠の祝福』というものを見失ってはいないでしょうか。 地上の生涯は70〜80年。 それは永遠の時間を考えるなら瞬きの様な時間です。 私達はその時間のみの祝福を求めて汲々としてはいないでしょうか。 永遠の御国、祝福は我が内に有る訳であります。 にも関わらず私達はあちら、こちらに目を向けて肝心なものを見失う事があるのではないでしょうか。 もっと永遠の御国の祝福にしっかりと目を向けてそこに向かっていく必要があるのではないでしょうか。

 ヤコブは多くの弱さを持ちながらなおこの神の憐れみの中を、神を信じ天の御国を待ち望みながら召されていきました。 私達もこの様な生涯を送っていこうではありませんか。
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