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2000年4月30日 召天者記念礼拝メッセージ



 新約聖書 コリント人への手紙第T 15章50〜58節より
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 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

本日は昇天者記念礼拝です。 昇天者記念礼拝というのは、主に3つの理由で持つようにしています。 まず第1は亡くなった方が安らぎの中にある。 私達の愛する者がそこで安らぎを得ているという事を知るならば、私達の心は随分と軽くなり、また力強く生きる力が出てくるのではないか、という点です。

2番目には、私達の愛する者が語ってきたことは何か。 その事を思い起こし、そしてまた自らの生き様をも考える事が出来たらどんなに幸いでありましょう。
そして3番目に"死"とは必ず誰にでもやってくるものです。 私達はその為の備えをしっかりとしていくことが大切ではないかと思うのであります。

神の平安の中にある人々


「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。 『見よ。 神の幕屋が人とともにある。 神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。 また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。 もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。 なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。 』」 ヨハネの黙示録21章3〜4節

"死"というものは、残される者にとっては、悲しみが心に残るのではないでしょうか。 けれども私達は、その愛する者一人、一人が今、『本当の平安』を頂いている、 その事を知るならば、「それで良い」と思えるのではないでしょうか。 そればかりか聖書が語る"天の御国"とは、この地上の私達が憐れむようなものではないと言っているのです。 この地上よりも遥かにすぐれた所。 そこには涙もない、苦しみもない。 本当に喜びとひかり輝く世界が皆さんの知り合いの一人、一人、兄弟姉妹をおおっているのであります。

旧約時代にヨブという人物がおりました。 彼は非常に多くの苦しみを経験した人でありました。 しかしその苦しみの中でヨブが語った言葉の1節を引用したいと思います。

「私は裸で母の胎から出てきた。 また私は裸でかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」 ヨブ記1章21節

この世を去る時に、私達は何を持っていく事が出来るのでしょうか? どんなに富を得ても一銭たりとも私達は持っていく事が出来ない。 豊かさの故に、目が眩まされて本当に見るべき物を見る事が出来ない。 私達は裸で出て来た。 そして裸で帰る事が出来る。 その心の備えがあるかと問われている様な気が致します。

何時かは死ぬという事を知りながら、『今日』だとは知らなかった。 それが私達の思いではないかと思うのです。 しかし何時召されても良い用意をしておく。 それが昇天した方々を前にして、私達が考えておくべきことではないのかなと思うのであります。  ヘルマン・ホルベルスの「人生の秋より」という著書の中で、一篇の詩をうたっています。

この世の最上の業はなに?
楽しい心で年をとり 働きたいけれどもやすみ
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順に冷静に己の十字架を担う
若者が元気いっぱいで歩むのを見ても
ねたまず
人の為に働くよりも 謙虚に人の世話になり
弱ってもはや人の為に役立たずとも
親切で柔和であること
老いの重荷は神の賜物
古びた心にこれで最後の磨きをかける
まことの故郷に行くために
己の心につなぐ鎖をすこしづつ外していくのは
まことに偉い仕事
こうして何もできなくなれば それを謙遜に承諾するのだ 神は最後に一番良い仕事を残してくださる それは祈りだ
手は何もできないけれども
最後まで合掌できる
愛する全ての人の上に
神の恵みを求めるために
全てを成し終えたら臨終の床に
神の声を聞くだろう
『来たれ我が友よ 我汝を見捨てじ』
あなたはこのような死の備え、 「何時死がきても本当に感謝です。 今まで生かされた事を有難うございます。 今喜んであなたに従って行きます。 」そう言う事ができたら何と幸いでしょうか。

死への備え


死は打ち勝ちえないものなのか? 聖書では「そうではない」といっているのです。 かえって死とは、私達が、もっと素晴らしい世界に移されていく時の一通過点だと言っているのです。 だからこそ私達は、その為の備えをするべきだというのであります。 仏教では「悟り」もしくは「諦観」といいます。 「あきらめ」と書きます。 その「死」というどうしようもないものを認め、受け入れ、ただそれに従うしかない。 これが仏教の一つの悟りというものです。 しかしながら聖書が語るのはもっと積極的な死です。 私達の地上の体は、天国にはあまりにも相応しくない、につかわしくない。 だからこの身体は栄光の身体に変えられなければならない。 その為の一通過点が死だといっているのであります。 聖書はイエス・キリストが再び天からやってくる。 それが記されているのです。 そしてその時に人間は朽ちない身体によみがると語っているのであります。 それは何にもかえがたい希望という事が出来るのではないでしょうか。

山口キヨトという死刑囚がおりました。 彼は獄中でイエス・キリストの救いを受ける事が出来ました。 彼がその日、刑を受ける前に筆をとり、一つの歌を作ったそうであります。

罪の実は 浮世のちりと消ゆとても
心は清き神の都へ

そして「山口キヨト只今から天国に向って行きます。 ハレルヤ ハレ……」と言った所で彼の言葉は途切れた。 それを見ていた看守の人が「こんな立派な死を私は見た事がない」と語っていたそうであります。

神様は私達に、「死は死で終わるものではなく、遥かに勝る良き世界への入り口だ」と語っているのであります。 私達は地上での生涯のみが、自分の目に、また自分の心にいっぱいになっているのではないかと思います。 聖書は明かにこの地上より遥かに勝れる世界があなたを待っている。 そしてあなたはその為の備えをするべきである。 この地上にあってあなたはその様に生きるべきであるという事を語るのであります。 私達は"死"の為に如何なる用意がされているでしょうか。 あまりにも無防備になってはいないでしょうか。

一人のらい病患者に話しを聞いた事があります。 その人はライ病にかかったときに本当に悲しかった。 直ぐにでも自殺したかったが、死ぬ事は出来なかった。 そして肺炎を併発していよいよ召されるその時に、彼女は「自分はこれから死んだらどこに行くんだろう」と真剣に考える様になったというのです。 今までは、「早く死にたい」と思っていたのに、自分がどこにいくのであろうと考えると、不安でたまらなくなってしまった。 しかし聖書の中に「神を信じなさい。 そうすればあなたは死んでも生きるのです」という御言葉に出会った時に死の備えが出来た。 そして本当に全ったき平安が訪れたと語っていました。 そうなって不思議に病気も回復して、本人からお話を伺う事ができたのですが。

私達はあまり真剣に"死"を考えた事が無い為に、「不安なんかない」という人も多いのではないでしょうか。 いざという時に慌てない為に、今から真剣に"死"を考える。 そしてその為に備える。 私達の身体は朽ちなければならない。 しかしそれは朽ちて終わるのではない。 それは不死を着、神の栄光がそこに輝くのだと語っているのであります。 ご一緒に私達もまたその様な神の栄光にあずかるお互いにされたら、そして本当に亡くなった方と顔と顔を会わせて心から「よかったね」と言い合える事ができるのであるならばなんと幸いでありましょうか。
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