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2000年5月7日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 ルカ1章1〜26節より
牧師写真
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

キリストを知る為に

創世記が終わりまして、次に新約聖書『ルカの福音書』に戻らせて頂く事にしました。皆さんは、4つの福音書を読んだ時に「何故同じ事が繰り返し書かれているのかな?」と考えた方はいらっしゃらなかったでしょうか。私は「一回読めば分かるよ。何故繰り返しするのか」と思っていた時がありました。しかし段々と聖書を読んだりして分かってきた事は、

「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのです。」コロサイ2章3節

ということでした。私達が深くこの"キリスト"という方を知っていくことによって、多くの知識や宝を頂くことになる様に思うのです。その為に4人の人物が福音書を書いたのです。

ルカの福音書はギリシヤ人(異邦人)に対して書かれてあります。ユダヤ人であるならば当然分かるべき事(習慣や宗教的儀式等々)にも、説明が加えられていたりするんです。 一章の前半を見ますと、序文のような文章が載っている。これによってこの書物がどういう内容と目的を持って書かれたのかが分かる訳です。著者ルカは、医者であるとか、歴史家であるとか言われています。彼はテオピロという人物に向けてしたためています。

序文は
『私たちの間ですでに確信されている出来事』1節
という言葉で始まり、
『よく分かっていただきたいと存じます』4節
という言葉で結ばれています。既に確信されているなら説明の必要はないではないかと思いますが、私達は聞いたからといって本当に分かっているかというと、分かっていない事が多くないですか? "知識"としてはあるけれども、本当の意味で分かっていないという事がたくさんある訳であります。

私達は聖書の御言葉の意味が分かったとしても、本当に言わんとするところ、何を語っているのかという事、そこが十分に掴めていない事が多いのではないでしょうか。私達もこの御言葉を本当に分かるように学ばせて頂きたいと思います。

御使いの良き知らせ

著者ルカは序文を語った後に、バプテスマのヨハネの誕生ということから書き始めます。ザカリヤとエリサベツという夫婦であります。彼は由緒ある家柄の祭司です。彼等は神の前に真実に落ち度なく踏み行っていたとあります。でも彼等には、子供が与えられていなかった。その彼等に驚くべき事が起きました。御使いが現れ、神が彼等に子供を授けてくださると語られます。

ザカリヤがくじにあたって、香を焚く事になった。香壇に向って香を焚き祈るります。そして祈りが終わった後に、聖所から出てきて、民に向って祝福を祈るのです。そんなに時間が掛かる訳ではない。この時には、なかなか聖所から出てこない。「一体どうしたんだ?」と思ったら、出て来た。ところが言葉が出ない為に祝福の祈りが出来なかったのです。ザカリヤは御使いを通してとてつもない事を聞かされた訳です。

まず第1は、『あなたの願いが聞かれたのです』と書いてあります。これも私達への慰めではないでしょうか。彼等はきっと若い時から「子供を下さい」、「子供が欲しい」と祈り願っていた。「もう神様はこの祈りを聞き入れられない」と思っていたかもしれません。しかし神様は聞いていないのではなく、聞いておられたのです。そして今、ザカリヤに応えられたという事です。この様な素晴らしいニュース、よき訪れを聞いた時に、ザカリヤはどういう反応をしたでしょうね。

「そこでザカリヤは御使いに言った。「わたしは何によってそれを知ることができましょう。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」18節

不可能を見て、難しい問題を見るんです。そして「だめだ、だめだ、だめだ」と思うのです。結果として彼はこの素晴らしい祝福の時が苦しみの時になってしまった。その日以来、10ヶ月程、彼は話す事ができなかったのです。素晴らしい喜びのはずが、悲しみが伴なってしまった。不信仰が神の業を妨げるという事を体を通して知っていたんだと思います。
彼は不信仰にも関わらず、子供を頂く事ができたのです。彼は不信仰の過ちを教えられ、祝福にあずかる事が出来た訳であります。さて私達はこの箇所から学ばせて頂きたいと思います。

神の確信に立つ――御言葉を受け取る

皆さんは、聖書の御言葉を良く分かっていますか? 自分の救いという事がよくわかっていますか? 自分に救いの確信がないと思っている方は、この御言葉を読んでいただければと思います。

「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」ヨハネI 5章13節

皆さん『よく分かっている』でしょうか? イエス・キリストは再びこの地に来られると書いてあります。その時に私達は栄光の身体に変られると書いてありますが、どうでしょうか? あなたがたはキリストの再臨の日に、栄光の身体に変えられると確信を持っているでしょうか? あなたは今、永遠の命を持っていると確信していますか? 自分は本当に神の子供とされたと確信を持っているでしょうか? はっきりとした確信を持っているかによって、私達の信仰が生き生きとして、神様の恵みを豊かに頂く事が出来ます。御言葉を受け取っていく時に、私達は確信に立つ事が出来るのですね。はっきりとした確信がないなら、きちんと求めて下さい。はっきりそれが言えるまで、求めて下さい。

2番目に、神様はザカリヤに良き訪れとして触れて下さった訳です。しかし彼は疑ってしまった。その為に彼は何ヶ月間も口がきけない状態になってしまったんです。私達も不信仰になってしまった為に折角の神様の恵が止められてしまっていると言うことも随分あるのではないしょうか? 神様は"信仰の中に働かれる"と定めて下さっているんです。信じて立つ時に私達はその様な神様の祝福にあずかる事が出来る。この霊的な原則というものを見失ってはならないと思います。信じて立つ時に神様は様々な祝福を下さる。神様から恵を頂いた時にしっかりと「ありがとう」という者になっていきたいと思います。

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたは神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」ヘブル10章35〜39節

神様が御言葉で、はっきりと宣言して下さっている事を、曖昧にしないで、しっかり受け取って心から「アーメン」と御言葉を受けとっていきましょう。信仰に立っていきましょう。それによって私達は多くの報いを頂く事が出来るのです。私達は現実の様々な困難や何かを見る時に、恐れ退いてしまう危険性があります。

そうではなくて、信じて命を保つ者になっていきたいと思います。私達は疑ってしまって、不信仰になってしまって折角の神様の祝福を無にしてしまう。台無しにしてしまう、或いは苦しみの材料にしてしまう事もあるのではないでしょうか。不信仰を捨てて本当に神の栄光を見る。命に到る者に共にされていけたらなと思うのであります。

神様は、私達が神の御言葉に立って、従って歩む時に、驚くべき御業を成して下さる。私達はもう一度、御言葉を心から「アーメン」と言える者として、学ばせて下さい、教えてください、悟らせて下さいと共に求めていこうではありませんか。その様にしてこの福音書から共に学び、どんな誘惑や色々なものにあってもそれに打ち負かされずに、かえって打ち勝っていくクリスチャンに共になっていきたいのであります。
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