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2000年6月25日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 ルカ2章41〜52節より

 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

前回は律法を定める側にあるイエス・キリストが、私達と同じ様に律法を守られた。その姿から私達が律法に対して、どの様に振舞うべきかを一緒に学ばせて頂きました。さて今日はイエス・キリストの少年期から、ご一緒に学ばせていただきたいと思います。

謙遜に聞く姿勢

イスラエルには大きな祭りが3つあります。その祭りの度に、エルサレムから32km圏内の男性は祭りに行く事が当然とされていました。そういう訳で過ぎ越しの祭りにはヨセフ・マリヤ夫妻も毎年行っていた訳です。祭りを終えて彼等は帰路に向かうのですが、

『少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。』43節

ある方はなんと呑気なご両親なんだろうな?と思う方もいるかもしれません。これは巡礼者は最初は子供、次は女性、最後に男性、という順番で歩いていくのが、普通だったようです。彼等もこの順番で一日の道のりを歩いて宿泊しようと思ったら、イエス・キリストがいない事が分かり、それから3日間も両親は探し回った。

「そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」46節
「両親は彼を見て驚き、母は言った。「まああなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」48節

心配して歩き回って、やっと見付けたと思ったら、宮でラビ(教師)達と話している。「何をやっているのここで!」という感情であったと思います。それに反しイエス・キリストは、

「するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」49節

イエス・キリストは大事な証言をしております。イエス・キリストが何時頃から自分が"神の子供"と自覚を持っていたと思いますか? はっきりと聖書には書かれていませんが、この時にはイエス・キリストは「自分は特別な神の子供だ」と自覚していた事は、間違いない訳です。この言葉の中には、ご両親に対する警告という意味が含まれていたかもしれません。「あなた方は私が生まれた時の事を覚えていないのですか?どんなに特別な事があったのを覚えていないのですか?あなた方は私が神の子供であるという事を覚えていないのですか?」しかし彼はそれ以上は何も言いませんでした。

私達は第一に、"イエス・キリストの謙遜"を学ばせて頂きたいと思います。この時にはイエス・キリストは、自分が"神の子供"という特別な存在であるという認識を持っていました。ですから、私(イエス)はもうあなた方から何も聞く必要はないという事も出来たと思うのです。私(イエス)の方がもしかしたら、あなた方よりも知っているかもしれない。私達は人と比べてみて、自分の方が上だと思ったら、中々聞く事ができなくなってしまう傲慢さを持っていないでしょうか? イエス・キリストの方がレビ(教師)達よりも優れた知識を持っていたと思います。でもイエスはそこでなお、謙遜に聞く姿勢があったのです。私達もこの姿勢をしっかりと自分のものにさせて頂きたいと思うのであります。

神の恵み

「しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。」50節
先程も言いましたが、両親がイエス・キリストを正しく理解し、受け止め続けていたならば、「この方は神の子だ」と当然理解していた訳です。ところがこの時マリヤとヨセフはこれが分からなかった。イエス・キリストはその事を少し、両親に教えたかったんだと思うのです。「あなた方は、私が生まれた時の経緯を覚えていないのですか?もし覚えていたら私がどういう者かあなた方は分かったはずではありませんか?」両親は分からなくなってしまっていたんです。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103編2節

神様は忘れる事を嫌がられるのかと思うかもしれませんが、これは私達の為です。神様がどれだけの事をして下さったかを覚えているなら、神様に対する信頼感を失わないはずです。神様がどういう事をして下さるかと期待出来ますよね。忘れてしまうと神様がして下さる事に期待出来なくなるんです。神様の恵みをしっかりと覚えさせて頂く者に成らせていただきたいと思います。そしてそれは皆さんの信仰が励まされ、より神様に近づく秘訣となります。

私達は神様の業と言う事をもっとしっかり覚えましょう。あなたがキリストを"神の御子"であるというならば、もっと神様に信頼し、もっと神様に頼る事が出来るはずです。信じていくなら、もっと大きな平安や喜びや希望や期待が、私達の内にわくわくと沸き上がって来るでしょう。

主の御前での謙遜

「それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はれらのことをみな、心に留めておいた。イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」51〜52節

自分よりも優れた人に従っていく事は比較的簡単です。でも明らかに自分よりも劣るとか、自分の方が上だと思う人に従う時に、ものすごい屈辱感を感じませんか? イエス・キリストはこの弱い両親に従ったのです。私達は人から見下げられたくないという強い思いがありませんか? 人から馬鹿にされたり、低い者に見られたくないという、強い思いがあるのではないでしょうか? でもイエス・キリストはそうではなくて、喜んでヨセフとマリヤに従っていったのです。私達もこの姿勢を学ぶ必要があるのではないでしょうか?

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがを高くしてくださいます。」ヤコブ4章10節

私達は、人よりも高く評価して欲しいと思ってしまいます。でもそうではなくて、へりくだっていくことこそ神様が喜ばれる事なのです。へりくだっていく時に神様はそこに祝福をおいて下さる。神があなた方を高くして下さるという事なのです。

私達は頼りにならないものを頼りとし、誇りとならないものを誇りとして歩んでしまう。人からよく見られたいと愚かな歩み方をしてしまう事が結構あるのではないでしょうか? 真実に主の前にへりくだった道。これが主に喜ばれる道なんです。

人の前にも、神の前にも真実にへりくだる道を歩もうとしているでしょうか? それとも世の人と同じ様に、人から良く思われ、人から評価をされようとして、自らを高めようと高慢になっていく道を求めてはいないでしょうか? この弱い両親に仕えて、従っていった主の道を選びとっていくお互いにされていきたいと思います。
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