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2000年7月23日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 ルカ4章14〜30節より

 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

イエス・キリストはバプテスマのヨハネから洗礼を受け、その後に、悪魔の試みを受けられました。しかし御霊の力により、悪魔に打ち勝って、宣教の業を始められた訳であります。イエス・キリストはガリラヤに行きました。そして故郷ナザレへと向かいました。そこでのイエスの歩み、またイエスに対するナザレの人々の姿を教えられていきたいと思います。

主への明渡し――御霊に満たされる

「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。」 14節

私達が力ある者とされていく為には、御霊に満たされ、主の力に満たされて歩んでいく事が、どうしても不可欠です。 聖霊が望む時、私達も力を受けます。ではその聖霊の力はどうしたら受けられるでしょうか?

私達に必要なのは、"主への明渡し"です。しかし私達がその方に全てを明渡していないので、力がないのです。私達が生き生きとした力あるクリスチャンとなる為に、御霊に満たされる事を求めていきたいですし、その為に"主へ明渡す"という事もしていきたいと思います。私達は明渡したつもりでも、「これはちょっと・・・、あれはまだ・・・」などと制限をつけていないでしょうか?
「主よ、あなたの思うままにして下さい。あなたに一切を明渡します」
と言おうとすると、手が口にいってしまのではないでしょうか? それが私達がもう一歩御霊に満たされきれない理由なのです。私達ももう一度主に満たされる者となっていく事を求めていきましょう。

真実な忠告を受けとめる謙遜さ

イエスは生まれ故郷のナザレに行きました。安息日に会堂に入り、そして聖書が渡されます。羊皮紙の巻物でした。イザヤ書の61章の言葉を読み始めました。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主は私を遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
「イエスは、人々にこう言って、話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』 みなイエスを
ほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、『この人はヨセフの子ではないか。』と彼らは言った。」 18〜19、21〜22節 

もし皆さんがこの場にいたら、どの様な印象を受けたでしょうね? イエス・キリストが聖書を読み言った言葉は、『きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』何百年も、何千年も前から語り告げられた救い主の預言が、今日実現し、ここにいる。皆が感動に震えたのではないかと思います。

ところが居合わせた人々は、『みことばが実現した』のを素晴らしいと思う反面、「あのヨセフの子がぁ?」とも思ったんです。

ここで学びたいのは、ナザレの人々の心の姿勢です。 イエス・キリストが『きょう、このみことばが実現しました』と聞くと、「素晴らしい」と言いました。 自分達に都合が良い事を聞くと、褒め称え、素晴らしいと思うのです。でも自分達にとって都合の悪い事を聞きますと、それを拒絶して、それを聞こうとしないんです。これが私達の姿であり、この頑な心こそが砕かれなければならない、私達の根源だという事です。
自分に都合の悪い事を言われると、直ぐに怒ってしまうのが"私達の弱さ"である、という事を知って頂きたいのです。人から忠告されて、素直に「本当にそうでした」と言える謙遜さは中々持てないのではないでしょうか? 私達は自分の真実な姿や、自分の間違いを言われた時に直ぐに謝る事が出来るでしょうか? もし出来ないのならば、ナザレの人と同じです。イエス・キリストは私達に(そうでした)と認める事だけを願っていらっしゃるんです。私達は全面的に「お前はダメだ」と言われている気がしてしまい、その言葉を受けとめられないのですが、神は私達をまっすぐにし、祝福しようと語って下さっているのです。

心からの告白

栄華を極めた王ダビデは忠実な僕であったウリヤの妻を自分の物とした上に、ウリヤを戦場の最前線に行かせ、そこで命を落とさせました。ダビデは自分の罪を隠す為に、人の手を通して僕を殺させたのです。ダビデは約1年間神の前にこの事の悔い改めをしなかった。自分の過ちを素直に告白する事をしなかった。 そのことの苦しさを記した箇所があります。

「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、わたしの骨々は疲れ果てました。」詩篇32編3章

皆さんもこの様な経験はないでしょうか? 「どうもクリスチャンとして元気がない」というのは、神様があなた方に「認めなさい。告白しなさい」と迫っているからである可能性はないでしょうか? 神様はあなたをいじめて、見捨てようとしているのではなく、そこから悔い改めさせ、もう一度救いの喜びに戻す為に、その様に迫るのです。

ダビデが罪の告白をした時に、彼の心は変わりました。それどころか、救いの完成が彼を取り囲んだのです。神様が導こうとしているのは、ここです。あなたがもし苦しいとするならば、
「私は本当にそうだ。惨めな者だ。間違った事をしている者だ。愚かな者だ。汚れた者だ」
と認めることです。罪深いとは言っても、ダビデほどの罪を犯した人はそうめったにはいないでしょう。だとするならば、あなたの罪がどんな罪であれ、赦されないはずがあるでしょうか? 神は私達が、心から告白する事を待っていらっしゃるのです。

「まことに、まことにあなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」 ヨハネ14章12節

罪人の私達がどうしてイエス・キリストよりも大きな業をする事が出来るでしょう。それは御霊によってであります。どんなに汚れた人の罪も、イエス・キリストによって赦される事が出来ます。そして赦された者は御霊に満たされる事が出来ます。どんな者もこのお方に一切を明渡していく時に、私達は満たされて本当に力強い主の僕になっていく事が出来るのです。

私達が今出来る所において、一歩聞く耳を持ち、へりくだり、誤魔化すのでもなく、言い訳するのでもなく、弁解するのでもなく、「その通りです」と十字架を受けとめて、御霊に満たされ、主の僕として変えられていく事が出来たらと思います。 共に主の前にその様な者にして下さいと祈りましょう。
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