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2000年8月6日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 ルカ5章1〜11節より

 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

今日はご一緒にシモン・ペテロの姿を通して、キリストが神様の内に力強く歩む姿を学ばせて頂きたいと思います。

おことばどおり −

群衆が"ガリラヤ湖"に押し迫って来ました。その時にペテロがどうしていたかと言いますと、網を洗っていたのです。網を洗う事は後でも出来ますね。この姿に(あれ?)と思いませんか? ペテロは最初から熱心に神様に行ったというより、むしろイエス・キリストを積極的にお迎えする態度はなかったのではないかと思われるのです。

さてこの時にイエス・キリストの方からからシモンの船に乗り込んでこられました。そしてメッセージを語る為に、少し沖の方に船を出させた。ペテロとしては、姑を癒してもらった事もありますし、「いやだ」とは言えないでしょう。そして話をし終えた時に、次に『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい』といわれました。もしですね、最初から「魚をとりに行きます」と言われたら、ペテロは「イエス様、今日はやめた方がいいですよ」と言ったと思います。断固として自分の確信を押しつけ、動こうとしなかったのではないかと思うのです。 しかしこの時のペテロの言葉を見てみましょう。

「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜どおし働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」 5節

プロの漁師である彼等が一晩中働いて何も取れなかった。「イエス様。今日はダメです。でもどうしてもと言うなら出すだけは出しましょう」 どうでしょうか? 私達も積極的にというよりも、しても仕方ないけれど、やっても良いですよ。という位の感覚かなと思います。実際沖に行って網を下ろしてみた。すると沢山の魚が入り、網が破れそうになった。2艘の船が沈みそうになる位の大漁です。一晩中やっても全然とれなかったのが、一転して大漁であった。彼はこの時に初めて恐ろしくなった。 自分たちと行動を共にしているイエスがメシヤ(救い主)である事を一応は信じていたと思いますが、その意味する所を本当に受けとっていったのは、この出来事を通してではないかなと思います。その結果としてペテロは

「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言った。」 8節

のです。自分の心が見透かされている事も彼は十分にわかったでしょう。自分がこの方に対して傲慢で、或いは不従順を抱えたまま従った心をここで知ったのではないかと思います。だからこそ『わたしから離れてください』と言った訳です。

主の祝福に与かる

「シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくても良い。これから後、あなたがたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を岸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」 10〜11節

イエス・キリストは彼等の本当の姿を見ぬいた上で、主の使命に彼等を召している。さてここから私達はいくつかの事を学ぶ事が出来るかと思います。

まず第一は、ペテロがイエス・キリストの前にひれ伏して信仰深き者となった要因は、ペテロ自身からよりも、イエス・キリストの方からなされたという事をです。神様はペテロにされた様に、同じ様に私達にも近づいて下さっているのです。そして私達の信仰がペテロのようになるよう、願い、期待しておられるのです。
ペテロの弱さを知っているからこそ、その弱さに応えるやりかたで、イエス・キリストは彼に望んで下さった。船は岸から離れていました。ですから更に沖にいくのは、対して厄介ではない。そして彼は網をおろし、素晴らしい経験をする事が出来ました。

神様は弱い私達が何とかして神の栄光、神の権限に触れられる様に導いておられるのです。そして大事なのは、ペテロのとった反応です。ペテロは『おことばどおり、網をおろしてみましょう』と言いました。別訳では『おことばですから』とも訳されています。一晩中働いても何も釣れないんですから、やめた方が賢明と思う訳ですが、不承不承ながらも、彼は従った。そこで一歩従う決心をした。その時に驚くばかりの栄光が与えられた。そのとき、
「イエス・キリストは全ての権威を持つお方、メシヤなんだ。」
とイエスが身を持って体験させて下さったのです。 ペテロのこの一歩。私達も『おことばどおりに…』というこの姿勢を学んでいく事が大切かと思います。御言葉を読んでいく中で、自分の考えと違う事が沢山あると思います。或いは、いくら神様だからとそんなに頼りになる訳がないと、もしかしたら思っているかも知れません。でも『おことばですから』と従う、ここに神の祝福が現われるという事なのです。

「しかしイエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」 ルカ11章28節

私達の問題は、神の言葉を聞いてそれをどうするかなのです。神の言葉を聞くのは私達も同じでです。ペテロはイエス・キリストの言葉を聞いて、それに従った。私達が神様の栄光を受けさせていただく秘訣はここにあるのです。御言葉を聞くだけではなくて、実際に自分にあてはめる事が大切なんですね。あてはめる時に神様の御業を体験していく事が出来るのです。そすれば私達も日ごとに神の栄光を見させて頂く事が出来るのです。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれル野です。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように、主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きに夜のです。」 コリントII 3章16節―18節

私達も日毎に日毎に神の前に出て、御言葉を頂き、御言葉に従っていく。神様はその時に私達も栄光の器に変えていって下さるという事なのです。もしあなたが神の栄光に与りたいなら,日ごとに主の前に出て、御言葉に従うという決断を是非してみて下さい。イエス・キリストはペテロに『深みに漕ぎ出して、網をおろし魚をとりなさい』と言いました。あなたの生涯にも神様は「深みに漕ぎ出しなさい」といっている事を聞きたいと思うのです。大胆に神の御言葉を信頼して立って歩んで行く。そういう生き方に踏み出してみては如何でしょうか? その時にペテロの様に、実際に神の栄光を体験していく事が出来るのではないかなと思います。

私達が日毎に主の前に出て、主の御言葉を受け取り従っていくならば、神様は私達の生涯にも栄光を輝かせて下さる。本当に主に信頼して、一歩従ってみよう、二歩従ってみようと歩みだしては如何でしょうか。
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