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2000年8月20日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 マルコ5章21〜43節より
 メッセンジャー
   浜松福音自由教会
   吉井牧師

ちょうど、昨年の今頃、求道中の高校生が、瀕死の重態になってしまいました。病院に入院したのですが、重態で「今日、明日の命だ」と言われました。教会を離れないでずっと祈っていました。重態が続いて、8月15日の日曜日、礼拝の奉仕をしていたその時に「兄弟が召された」と連絡が入りました。

一人の兄弟の"死"という現実、そして身内の方達の悲しみの現実に触れる時に、"死"とは何かということを少しづつ分かってくる様な気がする訳です。多くの人々は中々"死"の現実を知ることは出来ないのではないかと思うのです。新聞の3面記事で多くの人の死が報じられておりますが、それは自分とはあまり関係がない事として読んでいます。しかしそれが自分の友人や自分の家族、そして自分自身の問題になってきますと、"死"は現実的に非常に恐ろしい、或いは悲しい、そしてあってはならないものになってくるのではないかと思います。

「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。『私の小さい娘が死にかけています。どうかおいでくださって、娘の上に手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。』」 22〜23節

少女の父親であるヤイロにとって"娘の死"は、絶対にあってはならないものなのです。でもそれが現実になろうとしている。"死"はどんなに愛し合っていても、生木を裂くようにして二人を引き裂いてしまうのです。ですからこのヤイロの必死の願いを見る時に、彼がどんなにか自分の娘を愛しているかがよく分かります。ヤイロは人々の噂や、伝えられた事によって、イエス・キリストが病人を癒したり、死人を生き返らせる事の出来る方であると知っていたと思ういます。このイエス・キリストは神が人となられたお方。彼はイエス・キリストに会う前から、このお方の御業を信じておりました。信じなければならなかったのです。ヤイロにとって、イエスという方は、娘の命を救う最後のカギでした。ですから、彼はイエス・キリストの所に来て一生懸命に願ったんです。

そしてイエス・キリストは彼の願いに応えられました。そして早速娘の所に出掛けようとしたんです。ところがその時に長血の女性の事件がおこりました。12年間長血を患っていた女性がイエス・キリストの衣に触れた事により、12年間の苦しみから解放され、絶望が希望に変わった。イエス・キリストとこの女性の間に色々なやりとりがありました。どの位の時間であるか分かりませんが、ヤイロにとっては、それは非常に長い時間ではなかったかと思ういます。

聖書には書いてありませんが、こんな事を呟いたかもしれませんね。「イエスさま、今目の前にいる女性は確かに絶望の中を歩いてきたでしょう。でも今死ぬ訳ではない。ちょっと時間を遅らせて、娘の方を先にしていただけませんか!!今私の娘は死にかけているんです。」私達の人生の中には、
「何故こんな時にこんな事が起こるの!?」
と思う事があると思います。でも全ての人生を支配しておられるお方が起こされる事であるならば、人生の中に無駄はないし、そこに起こった事は何らかの意味と何らかの目的を持って、イエス・キリストが起こして下さった出来事だという事を、私達は信仰によって受けとめていきたいと思うのです。

ただ信じていなさい

結果的には女性が癒された事を目撃したのは、ヤイロにとって非常に良かった。大きな益になった訳です。それを見たときに彼は確信を持ったでしょう。ですからイエス・キリストの癒しと御言葉を通して魂の奥深い所まで刻み込まれたと思うんです。「私が今お願いしているお方は、間違いのないお方だ」と確信に導かれたと思うんです。ところが確信を持ったその時、娘の死を知らされたわけです。人間の理性によるならば、これで全てが終わりです。ほんの少し前に確信を持った彼でしたが、一瞬のうちに消えてしまいそうになりました。

しかしヤイロの心の底には、長血の女性の出来事が焼きついていました。この時彼の信仰は試されていた。自分の理性に従って、絶望して神を恨むか。子供の死という現実を目の前にしながらも、なおイエス・キリストを信じて希望を持ち続けるか。私達の生活の中でも、理性を選ぶか、信仰に生きるか、そこに立たされる時があると思うんです。ヤイロの信仰はぐらついたかもしれません。けれども、
「イエスは、その話をそばで聞いて、会堂管理者に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい。』」 36節

この時、ヤイロはイエス・キリストの言葉を人間の理性に勝るものとして、受け取りました。『ただ信じていなさい』というお言葉から一歩も動きませんでした。そして死んだの娘の所に、イエス・キリストを案内するという事になった訳です。そしてイエス・キリストは中に入って行かれてこうおっしゃったんですね。

「中に入って彼らにこう言われた。『なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。』 人々はイエスをあざ笑った。しかしイエスは人々を外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。」 39〜40節

「眠っているのだ」と希望の言葉をかけられたのです。だけどもその時に人々はどう答えたか?
今まで泣いていた人達が一転して笑ったのです。よく私達も訪問伝道やそういった働きの中でよく経験する事です。"死"という現実の前では、人々は取り乱し、泣き、わめくんです。でも永遠の希望の事を語ると、笑うのです。相手にしないんです。人間は絶望を信じやすい。でも希望を中々信じようとはしない。

さてイエス・キリストはこの時に、笑った者を全て部屋の外に出し、信ずる者達だけで少女の部屋に入って行きました。

「そして子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)すると少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。」 41〜42節

この所から私達は"信仰のない者"と"信仰ある者"との対照的な姿を見るんです。 信仰のない者は外に出されて、信仰のある者だけ中に入れられ、その中でイエス・キリストは御言葉の権威を示す奇跡の業をなさったという訳です。信仰があるならば、信仰を持つならば、いつも私達の周りにイエス・キリストの素晴らしい奇跡の業が起こされている事を見る事が出来ると思います。

さてイエス・キリストはどの様な目的をもってこの奇跡を起こされたんでしょうか?

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとりを終わりの日によみがえらせます。」 ヨハネ6章40節

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。命です。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。』」 ヨハネ11章25〜26節

イエス・キリストは、病を癒す為に、パンを与える為に、あるいは死んだ者を生き返らせる為だけに、この世に来たのではありません。イエス・キリストは神様であられるのに、この世に人となって来て下さった目的それは、全ての人々が神の前で罪赦され、神と和解し、そして永遠の命を持つためです。私達もやがて終わりの日に、イエス様の声を聞いて蘇る時が来る。そしてその時に永遠に死ぬことのない命の冠をイエス・キリストからいただく事になる。その日こそが私達クリスチャンにとってのゆるぎない希望の日になるという事。ですから私達は益々イエス・キリストを私達の罪からの救い主としてこれからも信じ続けていきたいと思います。

この世にはもう信じられないような現実が色々と起こってきます。でもその時にこそイエス・キリストが語って下さるんですね。

『恐れないで、ただ私を信じていなさい』

私達が既に頂いている信仰によって、永遠の希望に向って不信仰を乗り越えて進んでいきたいと思うのです。そしてまた信仰ある所に、素晴らしい奇跡ががおこされる。私達の人生の中で色々な奇跡を見させていただきたいなと思う。そんなイエス様をしっかりと仰ぎ見て、信仰の第一歩を力強く踏み出して行きたいと思います。
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