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2000年8月27日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 ルカ5章17〜26節より
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

今日は中風の人の癒しを通して、私達が学ぶべき事柄を教えられていきたいと思います。

中風の男と4人の男

信仰生活の中で、全てが順調の時もありますが、多くの場合には前に進もうとするとそれを妨げる事があります。
「神様に従おうとしているのに、何故こんな事が?」
と思い、そして
「仕方がない」
と諦めて、神様が用意してくれた祝福を受け損なう事が多いのではないかと思います。

「するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のまま運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。しかし、大ぜいの人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。」 18〜19節

中風の人と彼を運んだ四人の信仰がここに記されています。大人の男性一人を運ぶというのは、たとえ四人で担いだとしても軽くはないですね。
「イエス・キリストに会わせれば、中風もたちどころに癒される」
と一生懸命そこに連れて行った。ところが、その家には既に人がいっぱいでした。彼等も中に入ろうとしたのでしょうが、人々は中に入れてくれなかったのでしょう。普通ですと、
「何の為にここまで来たのかわからないや」
と呟いたり、不平を言ったりしながら、しぶしぶそこから帰ってしまうのではないかと思うんです。しかし彼等は諦めなかったのです。私達はここに第1の祝福の秘訣を、心に留めさせて頂きたいと思います。「諦めない」という事です。

ルカ18章1〜8節に、「不正な裁判官でさえ、寝ても覚めても訴え続けてくる者に対して嫌気がさして、裁きを下すのだから、まして夜昼神を求めている選民をいつまでも放っておかれる事がない」という例え話から、神様が必ず応えて下さるのだという励ましの言葉があります。

信仰生活の第1歩。"諦めない信仰"をしっかりと学び取らせて頂きたいものです。諦めてしまった為に、折角用意されていた祝福を受けられないという事が結構あると思うんです。もしここでこの人達が諦めてしまっていたらどうだったでしょうね? 彼等は
「こんなにやったのに何と言う事だ。」
と不平や呟き、その場にいた人達に対して不満を言ったりしたと思うのですが、しかし彼等はめげなかった。私達ここを学ばせて頂きたいと思います。そして彼等の行動を見てイエス・キリストは、

「彼らの信仰を見て、イエスは『友よ、あなたの罪は赦されました。』と言われた。」 20節

どうして諦めなかったか。それは彼等に信仰があったからです。
「神様には出来る。イエス・キリストには出来る」
と堅く信じたから、そこから逃げなかった。本当に堅く信仰があるならば、私達はとことん求めるのではないでしょうか?
私達はと言いますと、
「どうせ今は神様の御心ではないんだ」
と、簡単に諦めてしまう事があるのではないかと思うのです。私達は本当に求めていく必要がある事を、神様は教えて下さっているのではないかと思います。そして私達がその様に求めていく時に、不可能な所に道が開かれていくのです。

私達が"出来ない"と諦めてしまうと、物事の先が進まないという事があるのだという事。そしてそこに"神には出来ない事はない"という信仰があるならば、更に様々な希望、可能性を見出していく事が出来るのだという事を覚えさせて頂きたいのです。神にとって不可能はないとするならば、私達はこの神に求めていく事が出来ます。力が出ます。

この4人の人物の、"イエス・キリストには出来る"という信仰は、遂に一人の人を寝かしたまま降ろすという行動をとらせました。彼等は破損した家の修復は犠牲を払って、自分達がやろうと思ったのではないでしょうか。とにかく今必要なのは、この"癒し"。本当に願うなら、求めるなら神に不可能は無い。そして道を開かれるという事を教えて下さっている様に思います。さてその時にイエス・キリストは不思議な事を言われたんです。 皆さん、信仰を持ってイエス・キリストの所に来る人に対してイエスは『友よ』とあなたに「愛する兄弟よ、姉妹よ」語って下さるのです。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」 へブル11章6節

神に信仰を持って近づく者を神様は喜んで下さるのです。如何でしょうか? あなたの内に信仰を持って神様に求めている事がどれ位あったでしょうか? 『友よ』と優しく語りかけた後の言葉は、『あなたの罪は赦されました』と言うのです。彼は病が癒される事を求めて来た筈ですが、イエス・キリストは『あなたの罪は赦されました』との言葉でした。
これは私達に本当に必要な事は何かという事を語って下さっているように思います。病が癒されるのも大切な事です。でもまた病気にかかるかもしれない。だからこの人にとって本当に必要なことは、"罪が赦される"という事であった。そしてイエス・キリストはその事を明確に語ったのです。イエス・キリストは私達の本当の必要を見抜いておられるのです。

私達は「あれが欲しい、これが欲しい。あーなったら、こうなったら」と思うのですが、イエス・キリストはもっと本当に本質的に必要なもの『あなたの罪は赦された』と言った訳であります。
その場にいた律法学者、パリサイ人達はすかざず

「ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』」 21節

素晴らしい御業や赦しを見ても、律法学者、パリサイ人はそれを非難する。裁く材料にしていく訳です。

「人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。』」 26節

同じ出来事を見て、神様を誉め称える事も出来ますが、反対に裁いたり、呪ったりしてしまうことさえある。私達はこれを見る時に、
「私はパリサイ人ではない」
と、思うのですが、それが既にパリサイ人の姿なのです。私達の中にこの様な姿がありませんか? 直ぐに人を裁いたり、憎んだり、高慢な思いになって見てしまったり。私達はそういったものに気を付けなければ、折角の恵みの時が台無しになってしまうのです。

「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいお方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」 ヨハネI 1章9節

私達がその罪を言い表すなら、すぐに神様はそれを切って下さる。私達は早めに切り取る作業を怠らない様にしていきたいと思います。そうでないとパリサイ人、律法学者の心にあっという間になってしまう危険性があるのです。そして神様が用意して下さった素晴らしい祝福も、感謝の内に受け取れるのではなくて、それすらも裁いたり、疑ったり、悪い思いでしか見る事が出来なくなってしまうのです。イエス・キリストの御業を見ながらも、その様にしか見られなかったパリサイ人や律法学者の心。それは「私達の心」だと受け留めさせていただき、きよめを日々新しく受ける事が出来たらと思います。

まとめとして、神様を求めているのに、それを妨げられる様な、めげる出来事が起きますと、諦めてしまったり、ひねくれてしまったりする事もあると思います。しかし諦めないで「神には出来る。神にはその力がある」と信じて求め続けていく事。これが神の祝福に与かる秘訣です。これをしない為に、私達に与えられようとしている恵みが受けられない事があります。私達は色々な出来事の中で「神はその中で益として下さる。神は勝利して下さる。」と思って是非前進し続けていきたいと思います。私達は神様を信ずるところから神様に対する不屈の精神が出てくるのです。神様に対する信仰こそが、めげないで真っ直ぐに進ませる事ができるのです。

次にパリサイ人、律法学者達の目の前で、神の一人子が罪を赦す権威を見せ、癒しをなさる大いなる祝福の時に、彼等は『神を汚すこの人はなにものだ』と悪く言うわけですよね。祝福がかえって呪いの場となってしまった。私にはが物事の捉え方、考え方によって神様の大いなる祝福が呪いや汚れとすら見えてしまうという事なのです。私達は自分の中に出てくる様々な悪しき思いに気をつけるべきです。これが肉に属する思いだという事を知って、一つ一つ切っていく必要があります。こういう肉に属する思いを私達は出てくるそばから切っていく事をお勧めしたいと思います。
「私の中に、妬む心、憎む心、高慢な心がある。主よ、今この心をきよめて下さい。赦して下さい」
と祈ったら良いですね。正直に言うならそれを赦し、きよめると言って下さっている訳ですから直ぐにそれを告白しましょう。主はそれを赦して下さるのですね。

そして最後にイエス・キリストが人の子が罪を赦す権威をあなたがたに悟らせる為にと、この癒しの奇跡を行われました。でも本当に幸いなのは罪が赦される事です。『あなたの罪が赦された。』これは癒しよりももっと偉大な事です。その事があなた自身の内に起きているのに、感謝出来ない心になっているならば、
「主よ私の目を開いて、きよめてその素晴らしさに喜び、感動し歩む事が出来るようにして下さい」
と祈る必要があるかもしれません。イエス・キリストはあなたの内にこんな力を持って望んでくださるお方なのです。もう一度あなたにこの方をしっかりと受け留めて、神様の言葉に歩みを進めさせていただきたいと思います。そして神様の恵みがありながらその恵みを掴めないで、去ってしまうパリサイ人や律法学者ではなくて、本当に何も資格がないけれども、神の恵みに心を開いてそれに与かり、日毎に感謝するお互いにされていきたいと思います。
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