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2000年11月5日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 マタイ19章27〜20章16節より
 メッセンジャー
   古川福音自由教会
   小堀 昇牧師

今日は二つのメッセージをごいっしょに考えたいと思います。 まず1番目は全ての人に同じ恵みを与えて下さるイエスであります。今日の箇所を理解するカギは、『後の者が先になり、先の者が後になるものです』という御言葉にあります。これは「信仰の順序に入れ替わりがあります。先輩のクリスチャンであっても抜かれることがあります。ですから頑張って信仰生活に励みましょう」という意味ではありません。

ぶどう園の労務者たち

「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。」20章1〜2節

雨季を目前に控えた本当に忙しく猫の手も借りたい労働の時期です。朝6時から夕方6時まで働くのが当時の一般的な労務者の労働でした。一人目の人は朝薄暗い6時前に雇われています。2人目の人は、9時に。3人目の人は、12時。4人目の人は3時。最後の人になりますと皆がもう帰り支度を始めた夕方5時に雇われている訳であります。最後の人は僅か1時間しか働きませんでした。葡萄の収穫は8月、9月であります。日本とは異なり葡萄は広大な地面を延々と這っているわけであります。夏の焼けつく様な暑さの中で収穫をするのです。

一日の仕事が終わり、日当の支払いが始まりました。一番最後に来て、たった1時間しか働かなかった人が1デナリ。今ですと約1万円になります。ですから朝6時から12時間働いた人は喜びました。(今日の主人は気前が良いぞ。1時間で1デナリだから、俺は12デナリ位もらえるかもしれない!と喜んだのです。)ところが3時、12時、9時、6時に雇われた人も1デナリ、1日1万円の日当だったのです。朝6時から働いた人が文句を言いました。「朝早くから焼けつくような暑さの中を働いて、5時から来て1時間しか働かない人と同じとはひどいではないですか。」しかし『労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった』と約束したのですから、主人は何も悪いことはしていません。同様に9時の人にも、12時の人にも、3時の人にも同じようにしたのであります。

「しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。』あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。」13節

雇い人は何も悪いことはしていません。約束通りの事をしただけなのです。この箇所から私達は、神様は全ての人に同じように恵みを与えられる事を教えられています。

「そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょう。」19章27節

ぶどう畑の話は、ペテロのこの質問にイエスが例えて話された答えであります。ここには報酬を要求して当たり前という冷たい傲慢な心があります。神様との関係の中ですら、働いた時間、犠牲を払った度合いに応じて評価が決まると考えてしまっている訳であります。これは内面的に神を喜ばせているとは言えません。6時から働いた人達は言いました。

「言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私達は一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』20章12節

自分達こそ最も苦しんだのだと言いたかったのです。私達も「これだけの事をやった」とその量によって自分の奉仕を測ることはないでしょうか? 人と比べてある時は(よくやっている)(ある時はだめだ)と優越感に浸ったり、落ち込んだりしていることはないでしょうか。しかし神様は私達をどれだけの事をした、どれだけの働きをした等とその基準によって計られる事はなさいません。朝6時からの者にも、夕方5時からの者にも同じ恵みを持って望んでくださるお方です。同じ1デナリを与えて下さるお方です。働きの大きい、小さいではありません。全ての人に神様は同じ恵みを与えて下さいます。

遅すぎることはない

それからイエスを信じるのに遅すぎる事はないという事です。この“一デナリ”は何を表しているのでしょうか。4節では『相当のもの』と言っています。『相当のもの』とはギリシヤ語を直訳しますと、“義”という意味であります。十字架の罪の赦しにより、“罪はない”といわれるあの“義”であります。この救い、この義を受け取ることが出来る。だからあなたは生きなさいという意味なのです。『相当なもの』というのは、本来1時間しか働かなかった者には1時間に相応しいもの。3時間働けば、3分の1、6時間なら半分。みんなそう思うのです。ですから12時間働いた人は文句を言っています。

しかし神様の目から見るならばこれが『相当なもの』なのです。これが筋が通っているのです。私達がこの例えを理解できない最大の理由。それはこれを読む私達が自分を朝早くから来て働く人に置きかえて読むからなのです。しかしこの5時から来た人が、私であり、あなたであり、あなたの家族であり、友人なのです。イエスは十字架により罪の赦しと救いを成し遂げて下さいました。焼けつく日照りの中で十字架にさらされて悩みと苦痛を舐め尽して下さいました。そして信じる全ての人に同じ救いをもたらしてくださいました。6時、9時、12時、3時全ての人に同じ恵み、同じ救いが与えられるのです。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」ローマ3章22節

人生の5時に滑り込む者にも、朝6時からの者にも、9時からの者にも12時からの者にも、3時からの者にも、同じ恵み、同じ救いが与えられます。この様に『後のものが先になり、先の者が後になる』ようなものです。“後の者”というのは、「私は少ししか働かなかったら少ししか報われない」と自他ともに、認めていた人です。“先の者”とういうのは、「多く働いたから、多く報われる」と期待していた者の事です。ところが多くを期待していた人は、自分の胸算用からするならば、あまりにも少ない“後の者”になってしまった。逆に期待していなかった人は、自分の期待を遥かに上回る報酬を得ることが出来ました。天国にはこの様な大逆転があります。日没寸前に雇われた人も同じ日当をもらって帰れます。イエスと共に十字架につけられた強盗は言いました。

「そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23章42〜43節

この強盗は正しく人生の5時にイエスを信じて1デナリを頂いた人です。私達の人生には最後の最後まで希望があるのです。世の常識からするならば、1時間は12分の1の日当。それが相応しいものです。しかしイエスにあってはそうではない。イエスは私達が人生のどんな時に救われたとしても同じ恵み、同じ永遠の命、同じ罪の赦しをもって私達一人、一人の人生に望んで下さるのです。

イエスを信じるならば、人生の黄昏に信じた人も、母親の胎内にいた時から教会に行っていた人にも同じ永遠の命の恵みを頂ける、罪の赦しを頂けるのです。人生のどんな時に信じてもイエスは同じ永遠の命の恵み、永遠の救いをもって私達に望んでくださいます。ですから安心して主を求めていきたいと思います。イエスを信じるのに決して遅すぎることはありません。イエスを求めていくのに決して遅すぎることはありません。イエスは同じ永遠の命の恵みをもって私達の人生を満たし、私達の人生を導いて下さるお方です。同じ恵みをもって望んで下さるイエスを信じ見上げて、地上の信仰生涯をまっとうさせて頂ける者でありたいと思います。
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