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2000年11月12日 日曜礼拝メッセージ



 旧約聖書 箴言22章4〜6節より
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

今日は「子供祝福式」ですので、特に『教育』という観点から御言葉を通して教えられていきたいと思います。

若者をその行く道にふさわしく

「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」 6節

聖書の中には沢山の戒めが記されています。"いましめ"とか"きまり"とか聞きますと(あーうるさいな。あー嫌だな)と受け取ってしまう事が多いのではないかと思います。しかし聖書はそれを本当に受け取っていく時に、私達には非常に健やかな人生が備えられる。また子供達にもその様な人生が広がっていくと語っているのです。
そして子供達が正しく歩む為に大切なことは、小さい時から『その行く道にふさわしく教育』する事だと語っているわけです。 エペソ6章1節―3節に

「子どもたちよ、主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です」

という御言葉が出てきます。 私達がこの世に生まれ出て初めての人間関係は、"親子関係"です。ですから親に対して私達がどのような関係を持っているかが、その人の生涯全体に大変重要な意義を持っているのです。すなわち親に対して素直な心を持つ事が出来ないとどうなるか、それは世の中全体に対しても同じような思いを持ち、恨んだり敵対するものになってしまうという事です。私達が心を開いて、素直に親の忠告・経験・教えを聞くことが出来、その真意をくみ取っていく事が出来たならば、私達は随分多くのムダを取り除く事が出来たのではないかと思います。

でも残念ながら私達の中には反抗心があり、なかなか親に素直に従う事ができないのです。そこで親は力のある内は、子供を"自分の権力"で押さえつけようとする。しかしそういう形で押さえ込んで育てている限り、子供達の心が健やかに育つことは難しいでしょうし、健やかな関係を持つ事は難しいのです。ですから聖書には、このような言葉が続いています。

「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」エペソ6章4節

『おこらせてはいけない』というのは、ただ表面的におとなしくさせればよいという事ではありません。親の力や権力や脅かしにより、子供にいうことをきかせるようでは、正しい親子関係は出来ないと言う事です。「親は子供の言い分をきちんと聞き、子供の感情や、思いを理解した上で、子供が従えるように導く」それが親としての教育だと言うことです。そして親に素直に従う事が出来、素直に聞く事が出来るならば、世の中の多くの人からも私達は聞き、学ぶ事が出来ます。余計な苦しみを通らなくてすむのです。まさしくその人は、『しあわせになり、地上で長生きをする』恵みに与る事が出来るのです。

そういうわけで、私達は第1に"親に従う事が出来る者"にならせて頂く、或いは"親を敬う"者とならせて頂く事が必要であるのです。

次に"子供を怒らせてはならない"。これがあって"教育"が成り立っていく事を覚えていきたいと思います。
"教育"と聞くと、直ぐに浮かぶのは「学校教育」いわゆる「知的教育」という事だと思います。しかし知的教育は、教育の中のごく一部である事を私達はわきまえなければなりません。「勉強が出来れば、それで教育した」と思っては間違いという事です。知的教育も教育の一つでありますが、もっと大切な「道徳教育・社会教育」もきちんと教えなければならない。人間として"生きるルール"を知っておく事が必要でありましょう。

しかしながらこの2つが出来てもまだ足りません。「人生教育」又は「霊的教育」と申しましょうか、"如何に生きるべきか。""どのように人生を歩むべきか。"私達はこの事も教える必要があります。これらの事柄をきちんと教えてこそ、親は子供を育てる事が出来ると思います。

幼いときに

17歳の青少年犯罪が多く発生しました。彼等が凶悪的な行動に出た背景に2つの異なった可能性があったといいいます。一つは、暴力的に押さえつけられてしまい(いつか…)という気持ちが爆発した為。もう一つは、幼い時にきちんとしたしつけを受けなかった。すなわち詳しく説明しますと、幼児期には子供は『幼児性万能感』というものを持っているのだそうです。泣けば、親が「おなかがすいたのね」とミルクを与える。おしっこをしておしめが濡れて、気持ち悪いと泣いたら、直ぐに新しいおむつと変わります。自分の思うままになっていくのです。しかし成長してくると、全てが思う様にいかなくなってくる。そしてその部分がきちんとしつけられていないと、やってはならないこと、自分の立場をわきまえずに歩むようになってしまう危険性があるという事なのです。親が子供に相応しい躾をする事がどんなに大切かという事です。幼い時にしっかりと躾るならば、後々までも生かされていくのです。小さい時に受けた事が自然にその人の形を作っていくのです。

では"大切な型"とはどのような型なのでしょうか?それは"謙遜"( 箴言22:4)とあります。謙遜というのは、学ぶ事が出来る姿勢です。私達は学ぼう、教えられようという姿勢がないと、なかなか祝福を受ける事が出来ません。私達は何かが出来ると直ぐに高慢になってしまいがちです。しかし「実るほど 頭を下げる 稲穂かな」とありますように本当に学んだ者こそ、腰が低くなるのです。
それではどの様にしたら謙遜になれるのかと申しますと、"主を恐れる"(箴言22:4)時であること聖書は示唆するのです。人と比べる限り本当の謙遜を身につけることは出来ません。 詩篇51章17節には

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません。」

とあります。 「一を聞いて十を知る」と言われますが、人に何かを言われた時、私達の自我が砕かれ謙遜にされていないと、反発し、学ぶことが出来なくなります。そうではなく「なるほど」と心から学ぶ事の出来る人されていきたいものです。私達は誰からでもどこからでも学ぶことが出来るし、学ぶ者になっていく必要があるのです。そしてそれは神を恐れ、神の前におけるむなしい、弱い自分を認めてこそ、それが可能になっていくのです。

主にゆだねる

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」 詩篇37編5節―6節

聖書は私達に出来ない事を「しなさい、しなさい」と言ってはいないのです。私達は自分のその弱さを認めて神様に委ねる、神様に任せる。それが信仰による歩みであります。その時に弱い私達を強めて、神様が成し遂げて下さる。これが福音です。そしてその時に私達に幸いがやってくるという事なのです。謙遜になれなくても、親を敬えなくても「これが私です。この私を委ねます。この私を何とかしてください」と主にお任せしていくこと。子供を怒らせてしまい、正しく導けなくても、「これがわたしです。この私を哀れんで下さいと祈る」その時に私達に正しい備え、正しい形が次第次第に形作られていっているのです。

子供達に正しく教育する。それはまずもって私達自身が主によって正しく教育される事から始まるのではないでしょうか。私達はまず、「謙遜に聞ける者にして下さい。」と祈ることが必要でしょう。或いはそれが出来ない自分の葛藤や痛みを正直に神様に申し上げる。神様はそこに慰めや癒しを与えてくださり、弱さがあっても親を尊敬する事が出来、その基準をまっとうしていきたいという気持ちに変えてくださるでしょう。

神様は私達のうちに御業を成し、祝福を与えて下さるのです。私達はこの道をしっかりと学び取って、その一つ一つを自分に当てはめて謙遜に、主を恐れ、主に従って歩む生き方をさせて頂きたいものです。その時に私達自身が幸いを得、私達に関わる人たちにもその恵みが与えられていく。そんな恵みの中に歩ませて頂く恵みに導かれることでしょう。
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