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2000年11月19日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 ルカ6章39〜49節より
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

私達の信仰生活の中には様々な時があります。 非常に主を喜び、生き生きと過ごしている時もあれば、マンネリ化して、(こんなものか)と思う時もあります。 ある程度聖書も分かってくると、少し失望しながら歩んだ経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。 しかし聖書はそれが本当の信仰生活ではなく、生き生きとして、滾々と泉が湧き出て川の如くになる様な生活になると語っているのです。 私達の信仰生活がその様に整えられていく秘訣が本日の箇所にあると思います。 

目を開いて見える者に

前回の箇所では、

『あなたの敵を愛しなさい』
『上着を奪いとる者には、下着も拒んではいけません』
『自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにしなさい』

それらを学ばせて頂きました。 神様の教えを聞いた時に、私達がどの様に対処するか。 どの様にそれを受け取っていくかとが私達の信仰生活に非常に重要な意味を持っていると申し上げたいのです。 御言葉を聞いて、自動的に心の中の目と耳を閉じてしまう事もある様に思います。 そうしますと御言葉が生き生きとしたものになってこないのです。 反対に(自分には出来ない)と思える御言葉に出会った時に、「どの様に対処したら良いのであろうか?」と立ち向かって行く方が御言葉が生き生きとしていくのだという事を知って頂きたいのです。 

『イエスはまた1つのたとえを話された。 「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。 ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。」』39節

これは信仰生活のあり方を教えて下さっています。 あなた方は霊的な"盲人"となっていないかを考えなさいと示されているのではないでしょうか。 私達は「分かった」と思った時が危険なのです。 

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならいほどのことも知ってはいないのです。 」 第Iコリント8章2節 

もし私達の心に大体分かったと思うようになったら、実は全然分かっていない可能性が高いのだという事を心に留めておきましょう。 そして「本当に分かる様にして下さい」と求めて頂きたいのです。 

"師"くらいにはなれるのです

「弟子は師以上には出られません。 しかし十分な訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなれるのです。」40節

これは一つの道理です。 しかし本当の神様、イエスさまについていくならば、それ以上になる事は出来ないが、その先生すなわちイエス様位にはなれるでしょう。 という事です。 これは私達への大いなるチャレンジ、大いなる励ましです。 ある方は(私なんかそんな…)と思っていませんか。 しかし謙遜すぎて神様が「成れる」と言っている事を、「私は無理だ」と神様に言ってしまう事はないでしょうか。 

「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。 神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」 エペソ3章19節

これは、あなたには、イエスとは"こういう方だ"と思える程に変わっていける可能性があると言うことです。 (私はだめだ)と思っても、あなたの内に来て下さった聖霊がそこまで変えて下さるのです。 私達はここに期待し、チャレンジしていきたいものです。 私達は人と比べるべきではありません。 イエスの忍耐と比べてあなたの忍耐はどうでしょうか? イエスの憐れみ深さと比べてあなたの憐れみ深さはどうですか? イエスの愛と比べてあなたの愛は如何なものでしょうか? 『父よ彼らをお赦しください』と祈ったイエス。 
私達はその満ち満ちた身丈にまで強められ成長する事が出来るのです。 私達は熱心に求めていくべきではないでしょうか。 "自分は見えている"と高慢になっていると、この恵みに与れないのです。 (主よ、知らないのです。 教えて下さい。 恵みに生かして下さい)と真剣に私達は求めていく事が大切なのです。 

ではどうすれば私達は"師(イエス)位"にはなれるのでしょうか。 40節後半に『十分訓練を受けた者は…』とあります。 訓練を受けなければ私達は変わっていく事が出来ないのです。 
『あなたは、どうして兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 自分の目にある梁が見えず、どうして兄弟に、「兄弟。 あなたの目のちりを取らせてください。」と言えますか。 偽善者たち。 まず自分の目から梁を取りのけなさい。 そうしてこそ兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。』41〜42節

私達の中に、妬みや敵対心がありますと、色々見えてくるのです。 (あの人はあの様ではないか、こうではないか)皆さんは人を憎んで、それを悔い改めた事がありますか? それがどんなに嫌な事か、したくない事か、辛い事か、悲しい事かそれを味わってこそ私達は、人の目のチリも柔和な心で取る事が出来る様に変えられるのです。 私達自身の中にある梁をまずとりのける。 私達は知らず知らずに、裁く心、嫉妬する心、憎む心、恨む心、色々な心が出て来ます。 それをほおっておくと神様との関係がギクシャクしたものになってしまう。 私達に必要なのは、「辛いですが、この私の問題をまず何とかしてください。 今まずこの私の問題を解決して下さい。 」と祈ること。 この事の苦しさ、大変さを味わった人こそが、本当に人の痛みを担うことが出来るのであります。 

「その人は、地面に深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。 洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人ににています。 川の水が押し寄せると、家は一っぺんに倒れてしまい、そのこわれかたはひどいものとなりました。」48〜49節

私達はただ聞くだけではなく、「御言葉に従っていこう、出来ない自分を神様の前に出していこう」と葛藤し、祈りながら一つ一つクリアしていく。 私達が問題に直面してその問題に「主よ、この問題を癒して下さい。 解決して下さい。 清めて下さい」と一つ一つ主によって解決と勝利を頂く時に、私達はしっかりとした土台に立つ事が出来るのです。 イエスにはどんな問題でも解決出来ない事はありません。 

「神様、この問題です。 これを何とかして下さい」

と求めていく時、そこから解放されていく。 その時に何があっても揺るがない人生になるのです。 しっかりした土台に立っているかどうかは、試練にあった時に分かるります。 しっかりした土台でなければ、試練が来ると倒れてしまいます。 私達は具体的な生活、置かれた持ち場、立場の中で主の御言葉に従う戦いをしていきたいと思います。 しかしこれは自分の力で出来ない事はよく理解して下さい。 「自分には出来ない。 ですからどうぞ神様その力を下さい。 そうさせて下さい」と真剣に求めていく。 そうすると知らず、知らずの内にしっかりした土台が立ちあがっていくのです。 そして揺るがない歩みが与えられていくのです。 

御言葉にどう直面するか? 土台の上に建っているならば、「主よ、従います」と言えるのです。 今はまだ(出来ない)と思う人は、諦めないでどうしたら主が成し遂げさせて下さるかを祈って求めていきましょう。 そして主の御言葉に一歩づつ、一歩づつ、昨日出来なかった事、今日を今日は出来る様に、去年出来なかった事を今年は出来る様にさせて頂きながら成長させて頂きましょう。 神様はその時に豊かな祝福を与えて下さるでしょう。 
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