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2000年11月26日 日曜礼拝メッセージ

りっぱな信仰

 新約聖書 ルカ7章1〜10節より
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

聖書が中心的に語っている事を簡単に言えば"信仰"という事が出来ると思います。 でも"信仰"とは分かっている様で分かりにくいものであると思いませんか? 「あなたは信じていますか?」と問われると、「信じていない訳ではないが、どこまで信じているかな」と、分からなくなってしまうかもしれません。 今日はローマの百人隊長の信仰を通して、私達も持つべき信仰をご一緒に学んでいきたいと思います。 

ローマ帝国の百人隊長

「ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようにお願いした。」2〜3節

イエス一行はカペナウの町にやって来ました。 この町はイエスが「自分の町」と言われる程、何度も来て、奇跡や様々な事をなさった町であります。 彼等が町に入られた時に、ローマ兵の百人隊長の僕(しもべ)が大変ひどい病気になった。 
当時"奴隷"は、「物を言う道具」と思われていました。 ですから普通は奴隷が病気になったり、弱ったりすると、弱っている者よりも元気な者を使った方がよいという事で、何の手当ても受けず死ぬのを待つ様になる。 しかしこの百人隊長は本当に弱った人を丁寧に扱い、知人を立てるという労をしてまでも、イエスに治してもらおうとしているのであります。 何故彼は自分で出向かなかったのでしょうか? それは彼が自分が"異邦人"、異邦人とは「自分は神の民に相応しくない者」その理解を非常に強く持っていたからです。 

「主よ。 わざわざおいでくださいませんように。 あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。 ただ、おことばをいただかせてください。 そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」6節b―7節
「これを聞いてイエスは驚かれ、ついてきた群集のほうに向いて言われた。 「あなたがたに言いますが、このような立派な信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」9節

イエスは彼を群集の前で誉められています。 それは彼がイエスの権威を正しく認めているからです。 社会的な立場で言えば、ローマ人の方が上です。 ところがそうではなく、「イエスこそ王の王、主の主」である、「私はその方の所に行く資格もない者」と感じているのです。 そして代理人として長老に「自分の僕が病気だが、異邦人の自分が直接出向くのはあまりにも恐れ多い。 悪いがイエス様にお願いしてもらえないであろうか」と長老がイエスの元に来たのです。 長老自身も百人隊長をイエスに紹介するにあたり、

『この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。』4節

と語ったのです。 彼はユダヤ人を愛するだけではなく、ユダヤ人の為に会堂を建ててくれた。 百人隊長は自分は異邦人ではあるが、ユダヤの教えやイエスの事を見聞きする内に、「この方は本当に神の一人子である。 この方こそ王の王、主の主である」という確信に到ったのだと思います。 社会的立場からすれば自分の方が上である。 しかし彼はこれ以上へりくだる事が出来ない程に、へりくだった。 

今日は、ここから"主の権威"、"主の主権"を明確に受け取める信仰を学ばせて頂きたいと思います。 あなたは神様を何処まで真剣に信じているでしょうか? 或いはどこまで神様の主権を認めているでしょうか? 自分が願っている事が叶えられると、(神様は守ってくれている)と思うのですが、自分の願いと反対の事が起きると、(神様は、ひどい、意地悪だ。 私のことを忘れてしまったのだ)と思ったりしていませんか? 神様の主権を認めるよりも、神様に文句を言って非難する。 これが私達の姿ではないでしょうか?

百人隊長は信仰を教えられた者ではありません。 しかし彼は"神を信ずる"事を明確に知っていた。 それは「この方は私達に対しての全ての権限、全ての権威を持っている方」この事をはっきりと認めていたのです。 私達はそこまで告白をすることが出来ますでしょうか?
「この方は主であり、大いなるお方、すべての権威をお持ちなお方である」と百人隊長は受け止めていた。 これが誉められる信仰の第1歩ではないかと思います。 

百人隊長の謙遜

彼は「自分は百人隊長だ。 おまえは奴隷だ」とは思えなかった。 「神様、私はあなたの前には一介の僕にすぎない。」その思いがあったのではないでしょうか。 だから僕に対しても優しく、自分の犠牲を厭わず彼は振舞う事が出来たのではなかったかと思うのです。。
 長老達は百人隊長がユダヤ人にした事を色々と言いました。 会堂まで寄進してくれた。 「この人は本当に神様の祝福を受けるに相応しい人です。 」と一生懸命に言うのですが、彼自身は『あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません』と言うのです

何故ですか?自分が「異邦人で、罪人にすぎない。 祝福を受けるに相応しくない者」という意識を徹底して持っていたからです。 (私が神様の前に出るならば自分がやってきたことは小さな事だ。 会堂は寄進させて頂いたにすぎない)それはとるに足らない事。 彼が本当に神の前に出たればこそ、この様に言いえたのではないかと思うのです。 ところがここで注目すべきは、「私は異邦人だから神様の恵みを受ける資格はないから、諦める」のではないのです。 「私は異邦人で資格のない者だがしかし、イエス様、あなたの恵みを頂きたいのです。 」これは百人隊長が自分がやってきた行いや善の結果として下さいと言っているのではない事が分かります。

 そうではなくイエスのうちにある大いなる恵み、イエスの持っている大いなる御力、憐れみの故に私に恵みを施して下さい。 私に何かがあるのではない、私に何かを下さる必要はない。 御言葉だけ下さればそれで十分です。 あなたの憐れみはそれ程偉大なものであります。 これが百人隊長の信仰であったのです。 

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全ったき信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」へブル10章22〜23節

私達は「自分は罪がある、汚れた者、愚かな者。 だから神の恵みを受けるに相応しくない)」とか、「私は聖書も読まないし、お祈りもしないし、奉仕もしないし、熱心ではないから神様から恵みを受けられなくても当然だ」と、こんな風に考えてしまう事がしばしばです。 しかしそうではない。 確かに神の恵みを受けるに相応しくない者かもしれませんが、神の恵みと憐れみは、それを越えるものです。 何故ならばイエスの血潮をがその為にあったのですから。

 イエスの血潮には私達の相応しくないものを洗い清める権威があります。 たとえ私達がどんなに汚れた者、罪深い者であったとしてもイエスの十字架は全てを打ち破りそれを清める力がある。 神の恵みは無限に開かれています。 あなたはイエスによって大胆に神に近づく事が出来る。 イエスと共に十字架につけられた強盗は死に際ギリギリの所で救われました。 本当に尽きない神の憐れみ、恵みをしっかりと受け止めていきたい。

「自分には資格がない。 資格はないけれども、イエス様あなたの御恵みにすがります。 あなたは恵み深い愛の方だから、私のこのしもべにも憐れみを掛けて下さい。 」これが"信仰"といえると思います。

もう1つ学ばせて頂きましょう。 "信仰"とは何でしょうか?
「神様への信頼」。 これが"信仰"です。 私達はどの位神様に対して信頼を持てっていますか? 神様は私達の為に、一人子を与えて下さった。 イエスはご自身の体を捧げて下さった。 何故ですか? それは私達を心配し、愛してくれているからです。 神様は私達に一人子イエス・キリストをお与え下さり、十字架の上で私達の罪の代わりに犠牲を払い愛をあらわしてくれたのです。 これに対しての応答が"信頼"又"信仰"といえると思います。 私達は神様に「あなたの言った事ですから私は信じます。 人が何と言おうとも私はあなたを信じます。」と告白し、神様は私達を愛して下さっているから「絶対そんな事をしない。 神様は悪い事をしない」と、私達が苦しみや悲しみの中でも信じ続けることができるならば、どんなに神様は喜んでくれるでしょうか。

あなたの生活の中にも神様はおられ、私達が不平を言うのも、呟くのも聞いておられ、また受け止めても下さっています。 でも本当は百人隊長の様に「あなたこそ王の王、主の主です。 あなたの内に全ての権威と権限がある事を認めます。 あなたが私に良き事を成している事を信じます。 」と信じ、その様に歩み始めるならば、神様はあなたにも『あなたの信仰は立派です』言って下さるでしょう。 私達は命がけで私達に下さった神の御言葉を心から信頼していきましょう。 そして神様に「資格がないから」と言って諦めるのではなく大胆に求めて恵みに与っていくお互いにされていきたいと思います。 
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