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2000年12月3日 日曜礼拝メッセージ
アドベント(待降節) 第1週



旧約聖書 イザヤ9章1節―5節より
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

今年は西暦2000年。「ミレニアム」という言葉が流行りました。聖書の"千年王国"の、千年からきている言葉です。そしてこの千年がイエス・キリストの降誕を起点としているのです。これから4週間にわたり、クリスマスを迎える心の備えをさせていただきましょう。神様がクリスマスにあたり語って下さった預言を考えさせて頂きたます。

キリスト生誕の予言

聖書の預言は、私達が「これは神様の書物だ」という事を理解する有力な手掛かりの1つです。聖書の中に約2万の預言があると数えた方がおるそうです。その一つ、一つを調べていく時に、この聖書が真の神の言葉であると認めざるえなくなる事が多いのです。聖書はお伽話や気休めを言っているのではなく、事実を語っているのを見る事が出来ると思います。 "よげん"とは、普通"予言"と書きますが、聖書の"よげん"は"預言"と書きます。言葉を預かるという意味です。神様の言葉を預かる。ですからそこには神の意図するところ、神様が目的とされるところが書かれています訳です。私達はそれをしっかりと受け止める必要があると思います。

「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。地を見ると、見よ。苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな栄光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光があった。」イザヤ8章21〜22節、9章1〜2節

当時イスラエルは南北に分かれ、北側がアッシリヤに占領されてしまう悲劇に見舞われていました。イスラエルはガリラヤ湖と死海の二つの湖があります。ガリラヤ湖を中心とした地域が占領された地域です。そして南の人々は北側地域を、「異邦人の地ガリラヤ」と呼んだのです。これは神の民に数えられないほどに彼等は神から遠く離れてしまった。神から縁遠い人々と思われていたのです。

その様な状況下の彼等にイザヤを通して神の言葉があったのです。(ここから救い出される事など有り得ない。自分達は神に見捨てられた)と絶望の中にあった彼等に、『やみがなくなる』とイザヤは預言として語るのです。

イスラエルの信仰的な意味から見ると、ガリラヤ地域の人々は馬鹿にされ、除け者にされていた。しかし神の光はその「ガリラヤの地」に上ったのです。これがクリスマスです。9章7節の最終行には『万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』とあります。自分達が頑張ったからとか、熱心にお祈りをするからではなく、神ご自身の業としてこれが起こるというのです。もしあなたが頑張ったなら…、あなたがしっかりしたならば…と言われたら私達は絶望するかもしれません。でも私達の努力ではなく、神ご自身の熱心がこれを成し遂げるのであれば、私達もこの恵みに与りうるのを見る事が出来るのではないでしょうか。

「あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。」3節

神様は『刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように』その様な楽しみ、喜びを神様は下さるというのであります。それはどの様にしてでしょうか。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」6〜7節

神はイザヤを通してこの様な方が生まれる。その時に闇の地に光が上ると預言した訳であります。私達はこれを預言ではなく、過去に起きた出来事として見る事が出来るとはなんと幸いな事でありましょうか。彼等はこれを仰ぎ待ち望み、将来この事が起こるのだと期待するしか出来なかった。彼等はこの日を待ちわびて、信仰を抱いて歩み続ける様にと、励ましと慰めを預言者を通して受けていった訳です。
しかし私達は既に「光が上っている」現実をどの様に捉えているでしょうか? イエス・キリストは既にこの世に来られました。そして十字架に掛かり、"死"と"罪"に打ち勝って下さいました。そして呪いを受けるしかなかった者が一切の呪いや束縛から解放され、私達に生きる力、希望と喜びを頂く事が出来る者に変えて下さったのです。旧約の彼等よりも遥かに恵まれた私達はこの事をどの様に受け止めていくべきでしょうか?

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」へブル4章2節

救いの御業はこれから起こるのではなく、それは既に起きているのです。光は既に上っているのです。それを私達が真実に受け止めて立っていくかどうかです。もし受け取っていくならば、確かに私達はこの恵みに与っていきます。でもそれを自分自身に結びつけないならば、その力は私達のものにならないのです。光が上っていないのではなく、それを受け取る信仰が私達にしばしば失われているという事です。私達は「神様を信じている」と言いながら、本当に神様に信頼し、委ね任せる事が結構難しいのではないかと思います。

信仰とは神様への信頼です。「主はもうこの事をして下さった。」本当に信じ受け取っていく時に、私達の内にその力が働き始めるのです。しかし中々そこまでいたらないその人たちの為に

「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もしおできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものならというのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとその子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」マルコ9章22〜24節

子供たちは弟子達に祈ってもらったが癒されなかった。そしてイエスの元に連れてきた。その時に言った言葉が『おできになるものなら…』。それに対してイエスは『できるものならと言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』これが主の言葉でした。その返答として、『信じます。不信仰私をお助け下さい。』

「信じます」といいながら、「不信仰な私」と言っています。信じるとはいえ、信じきれていない部分があるからではないでしょうか? しばしば私達もそういう所を歩んではいないですか? しかし主は「不信仰な私を助けてください。憐れんでください」これを良しとして下さるのです。いつも不信仰な自分を悔い改めて、「信じます。主に信頼します。主に期待します。主の勝利を仰ぎ見ます。主の光を見ます。」と祈るときに確かに私達に光がやってくるのです。困難の中にあっても、暗闇の中にあっても、そこに光が上ることが出来る。皆さんの闇がどの様な闇であったとしても、そこにキリストを見上げる時にそこに光が差すのです。そしてそこに神の勝利がやって来ることを是非知って頂きたい。

私達に必要なこと、私達の周りに取り囲まれている闇をしっかりと認め、その様な者を救う為にイエスが十字架に掛かり、御業を成就された事をしっかりと見上げる時に、救いの喜びが私達に漲ってくるでしょう。そしてまた私達が縛られていた多くのかせから解放されるでしょう。本当の平安が私達をおおうでしょう。アドベントの第一週に、闇の中から光が上った事を信仰を持って受け取り、神様に信頼していく。この事を覚えて主に信頼して歩み出すお互いとされていきたいと思います。
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