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2000年12月10日 日曜礼拝メッセージ
アドベント(待降節) 第2週



 新約聖書 ルカ2章8〜20節より
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

アドベント(待降節)第2週に入りました。主のご臨在と導きを待ち望む時であり、心から主を心の真中に迎えるクリスマスとなっていきたいと思います。今日はルカ伝2章から羊飼い達を通して、私達がどの様に主のご降誕を待ち望む備えをしていけば良いかを学びたい思います。

貧しき者に神の恵みが

「さてこの土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところの来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせにきたのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」8〜11節

彼等は夜番をしていました。羊を盗みに来る人や、野獣から夜を徹して羊を守っていたであろうと思います。真っ暗な夜空に星が見えるだけの静かな世界。ところが突然彼等の周りを照らす光が輝いたのです。真っ暗な世界で、突然に光が輝いたら、驚くと思います。そして御使いが語り始めます。

彼等もベツレヘムにいますから、当然救い主が生まれることは聞いていたでしょう。そして今ダビデの町(ベツレヘム)に救い主が生まれたというニュースを聞いたのです。光だけでも驚いたと思いますが、その語られた事も不思議な思いを持ったのではないかと思います。続けて、

「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」13〜14節

今度はもっと多くの天使が現れて、賛美をしました。どんなに麗しい賛美であったでしょう。心に染み入る、喜びに満ち溢れた賛美ではなかったかと思います。イエスが地上に現れたのは2000年前の事です。しかし神としての栄光と権威をおびておられたのは、天地創造の始めからであるのを忘れてはならない。イエスがどれほどの栄光を持つ方、王の王、主の主であるのを御使い達はよく知っていました。

ところが栄光の中に住んでおられた方が、人を救う為、人の身代わりとなる為に地上に人間としてお生まれになった。これは人間の為に救いの道が開かれた。その意義、その重さを知るのは御使い達だけであったと思います。だから彼等の賛美は、「主を褒め称えよ。人間に救いの道が開かれた。人間がもう一度神の子供として生きる事が出来る。」これほどの賛美はなかったかと思います。私達もその様に心から主を褒め称える者になっていきたいと思います。

イエスの誕生を賛美する歌声が段々と静まり、再び闇がその場をおおった。彼等は暫くの呆然としていたことでしょう。しかし今あった出来事を互い確認し、夢や幻でない事が分かると、御使いに言われた様に、「ダビデの町に行って救い主を見させてもらおう」という思いが出て来たのではないかと思います。彼等は連れ立って出掛けていきました。そして行ってみると、言われた通り幼子が馬小屋の飼葉桶に寝ていた。言葉に言い表せない思いが彼等の心をおおったのではないかと思います。

「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」20節

喜びと感謝にあふれる思いが彼等の内に満ち溢れていたでしょう。さて私達は今日ここから学ぶべき事柄は、この驚くべき出来事が羊飼いに現されたという事から一つの示唆を受けさせて頂きたいと思います。当時羊飼いはあまり神様に近い存在とは思われていませんでした。何故かと言いますとモーセを通して与えられた律法を、羊飼い達はあまりきちんとは守る事が出来なかったのです。四六時中羊の番をしていなければなりません。聖書では、

『六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。どんな仕事もしてはならない。』出エジプト記20章9〜10節
でも彼等はきちんと守る事がもしかしたら出来なかったかもしれません。或いは

『・・・パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、・・・』マルコ7章3節

彼等は野にいる訳ですから、毎回必ず手を洗えた訳ではないでしょう。その様な訳で彼等はイスラエルの社会においては見下されていた存在でした。ところが偉大なクリスマスは、人々から除け者にされていると思われていた彼等の前に現された事を心に留めておくべきです。ともすると私達は(私なんか…)と思うことがあります。聖書の中で、イエス「あなたの信仰は立派です」と誉められている人物は異邦人です。地位の高い者や立派な者ではなく、とるに足らない者を神は選んだと書いてあります。ですから自分が価値無き者(こんな私では)と思う方は神様から遠いのではなくて、実はすぐ側にいらっしゃるのです。

「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ヤコブ4章6節

反対に皆さんが「私こそは神の恵みを受ける相応しい者」とか「私はそれに応しい人物」と思っているならば神様の恵みから遠いかもしれないです。

私達が本当に落ち込み、「こんな私が…」と思う時に、神様は側にいて下さるのです。羊飼い達の事を思い起こして頂きたい。そして自分は「大丈夫」と思っているならば、「私は神の恵みから遠ざかっているかもしれない」と考えて頂けたらと思います。

主の言葉に従う――恵みを受ける者に

彼等がこの恵みに預かったのは何がきっかけであったでしょうか。天使から言葉を受け、賛美を聞いていても、もしかしたら過去のただの出来事に終わってしまった可能性もあるのです。もし彼らが聞いただけ、見ただけで終わらせていたならば、それ以上にはならなかったでしょう。どの位の距離があったか分かりませんが、ベツレヘムにまで出かけて行き、実際に見てみたいと思った。そして馬小屋にマリヤとヨセフと幼子がいて、語られた出来事が事実だと体験したのです。御言葉に従った時に彼等はその素晴らしい体験をしたという訳なのです。

「イエスはまた彼らに言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8章12節

イエスは「私は光です」「私が世の道である」「私が道であり、真理であり、命なのです」と言うのです。当時神殿の中に大きな燭台を灯す場所がありました。この光は町の果てからでも見えると言われている大きな光でした。遠くからも見える。そしてその光は「私(イエス)だ」と言うのです。光があるという事は、周りが闇であるという事です。「私(イエス)は闇の中に輝く光。」人々が絶望だと思える中でも輝く事が出来る。それがイエスなのです。そしてそればかりか、『私に従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』イエスに従う人は、周りが闇でもなお光りの中を歩む事が出来ると言うのです。

しっかりとした所を歩む事ができ、心に光りを持つ。しっかりとした確信をもった生き方が明らかな正しい道が出来るという訳です。それには『私に従う者は』と書いてあります。今日共に、クリスマスを自分の物とする為に"主に従う"という所に与からせて頂きましょう。クリスマスの事、イエスの誕生の事、十字架の事も何度も聞いているでしょう。

でもこのお方に本当に従っていく決断に立っているでしょうか?その決断が弱い為に折角聞いていながら、恵みを無にしてしまう人生になってはいないでしょうか? 神に従う決断をして、従っていく。その時に祝福に与る事が出来るのです。これこそがクリスマスの備えとなっていくのではないでしょうか。
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