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2000年12月24日 クリスマス礼拝メッセージ
アドベント(待降節) 第4週

人々を解放するために

 新約聖書 へブル2章14〜18節より
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   吉田耕三牧師

今日はクリスマス礼拝です。 今まで何回かクリスマスについてお話をしてきましたが、本日は"イエスの生まれた場所"からご一緒に学ばせて頂きたいと思います。 

貧しい馬小屋で

「・・・身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。 それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。 宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ルカ2章5〜7節

今は"クリスマス"といいますと、華やかできらびやかなイメージかと思います。 しかし、2000年前の最初のクリスマスは随分と違っていた様に思います。 まず場所はイスラエルの一番華やかな首都エルサレムではなく、少しはずれたベツレヘムという田舎町でした。 そのベツレヘムの馬屋でイエスはお生まれになった。 救い主の誕生は昔から聖書に記されていた事です。 それは、「ユダヤ民族に生まれる」「ユダ部族に生まれる」「処女から生まれる」などです。 そしてその中の一つに「ベツレヘムに生まれる」と預言されていました。

イエスの両親マリヤとヨセフは、ナザレという町に住んでいました。 ですから本来ならばナザレの町に生まれるのと考えられます。 ところが当時のローマ皇帝が住民登録をせよと命令を出したのです。 当時の住民登録は故郷に帰ってしなければなりませんでした。 彼等は臨月のお腹を抱え、故郷ベツレヘムに向かったのです。 やっとベツレヘムに到着したのですが、彼等が泊まる宿屋がなく、仕方なく馬小屋で休む事になりました。 家畜小屋ですから、中に入れば鼻をつくような臭いがしたでしょう。 まして家畜の汚れがついた"まぶね"にイエスは置かれたのです。 そしてそれが神の御心だったのです。 一体これはどういうことなのでしょう。

ある日私はラジオの福音番組を聞いていました。 宣教師がバングラディシュでの話をされていました。 ある日赤ちゃんを連れた一人の女性が教会に入って来て、「クリスマスとはどんな日ですか?」と質問してきたそうです。 その女性にクリスマスの話をした所、「神の子供として生まれる方がその様な場所に生まれたのですか。 私は本当にきらびやかな御殿の様な所に生まれたのだと思いました。」と非常にびっくりしたのだそうです。 彼女は「イエスがまぶねの様な貧しい所に置かれた」と聞いた時に「だったら私達の事も分かって下さるのですね」と感慨深く言ったそうです。 それを聞いた宣教師は、「馬小屋で生まれるというのはその様な意味があったのだな。 だからこそどんな人でもこの救いにあずかる事が出来るのだ。 「貧しい私は神様の様な偉い方とは関係ない」その様な人の救いとなる為にイエスは来て下さって、馬小屋のまぶねに置かれたのだ」と思ったそうです。 最下層の人達の為に、その人達の救いとなる為にも、イエスは馬小屋に生まれて下さったのです。

そしてまた私達の生活には、全てが上手くいく時があるかもしれません。 しかし同時に何をやっても上手くいかない。 そういう時もあるかもしれません。 でもキリストはそんな時に私達の"救い主"、私達の"友"となって下さるのを是非覚えて下さい。 

汚れた者の中に入られる主

イエスがベツレヘムに生まれた時、宿屋がありませんでした。 皆に拒否されたのです。 その人生は初めから拒否された孤独の人生であったと言う事が出来るかもしれません。 あの十字架に掛かった時には、それまでイエスがした良き事は何も覚えられず、馬鹿にされ、鞭打たれ、頭にいばらの冠を被せられ、手と足には釘打たれ人々から唾を吐きかけられた。 自分が育てた弟子達も直前には「私達は死んでもあなたについていきます」と言っていたのに、実際に追手が来てイエスを捕まえた時には逃げ去ったのです。 こんな風にして一人ぼっちになり、寂しい思いをしたのがイエスです。 それはベツレヘムに来ても迎かい入れる家もなかったそこに象徴されているのではないかと思います。 孤独であると思う方、寂しいと思う方、誰も自分の事をわかってくれないと思う方、イエスも同じ所を通られたのを是非知って頂きたいと思います。 先ほども言いましたが家畜の"まぶね"。 餌箱です。 そんな中に置かれたのです。
これは私達の汚れ、醜さを現しているのではないでしょうか。 イエスはその"まぶね"の中に寝て下さったんです。 私達がどんなに汚れているから、醜いからと私達を見捨てる様な方ではありません。 喜んでそこに来て下さるのです。 あなたが「醜い」と思っているそこに来て下さるのです。 本当は汚いはずのその"まぶね"が麗しい喜びの場所に変わったのではないかと思うのです。 汚い"まぶね"が光輝く麗しい場所になるんです。 これは正しく私達に対する象徴ではないでしょうか。

 「今あなたがどういう者であれ、あなたの内に私(イエス)が入るなら、あなたは変わる。 あなたは本当に光輝く者になる事が出来る」

と言っているのではないでしょうか。 

私達を解放する為に

「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。 これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださるためでした。 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。」へブル2章14〜16節

イエスがこの世に来たのは、まず第1に『悪魔を滅ぼす為』と書いてあります。 どんなに「呪いがある。 崇りがある」と言われようとも、イエスはそれを打ち壊す為に来て下さった。 何も心配する必要はないんです。 このお方によって私達は一切の呪いから解放されます。 イエスは私達が恐れる一切のものを断ち切る為に、解放する為に十字架刑を受けて下さった事を知って下さい。 そういったものに不安や恐れを持っている方がいるならば、ここに解決があるのを知って下さい。

人間が持つ悩み苦しみのもう一つは"死"ではないでしょうか。 「死ぬのは怖くない」という方もいるかもしれません。 でもこれは本当に真剣に"死"を考えていないからではないかと思います。 全く見知らぬ世界に一人で行くとしたら、不安です。 とするならば本来は"死"は怖いはずですが真剣に考えていなければ恐怖心も出てこないのです。 真剣に考える時に恐ろしくなる。 しかしながらイエスはそれを打ち破り決して死なない命、『わたしを信じるものは死んでも生きるのです』という言葉。 本当にイエスを信じ受け取る事が出来るならば、死の恐怖から私達を解放する事が出来るのです。 更にイエスの十字架は、私達の罪を赦し、罪から私達を解放するのです。

私達は良い事はなかなか実行出来ない。 それでいて悪い事は直ぐにマスターするのです。 自分でありながら実は何かに支配されているという事を気付く訳です。 私達は妬みや嫉妬や憎しみや様々なものに支配されてしまい、そこから自由になれない。 もし私達がそこから解放されたらどんなにか楽になるでしょうね。 私達は知らない内に悪しき者の影響下におかれやすい。 でもイエスはそういう所から解放し、赦し清めて下さる為に来て下さった事を知って頂きたいのです。 

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しくつくられたものです。 古いものは過ぎ去った。 見よ、全てが新しくなった』

と書いてあるのです。 あなたももしこのキリストを救い主として、解放者として信じ受け入れるならば、あなたのうちに新しい人生が始まるのです。 知って下さい。 "立派な私達"ではないのです。 例えあなたがどんな汚れや醜さやどうしようもない罪を持っていたとしても、そこに来て下さる。 そしてその時にあの飼葉桶がマリヤとヨセフにとって麗しい場所となった様に、私達もこの方を受け入れる時に、今がどういう状態であれ、本当に価値ある状態に変わっていく事を是非知って頂きたいのです。 

「見よ。 わたしは、戸の外に立ってたたく。 だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もまたわたしとともに食事をする。」黙示録3章20節

イエスは私達の心の扉を叩いて下さるのです。 もし私達が彼を自分の救い主として、自分の惨めさから解放して下さる方、劣等感から解放して下さる方、孤独から、悲しみから、憎しみから、思い煩いから解放して下さる方として受け入れるならばあなたの内にもその時から新しい人生が始まるのです。
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