このページについて
2001年1月14日 日曜礼拝メッセージ



 新約聖書 第Iコリント15章1〜11節より
 メッセンジャー
   仙台福音自由教会
   高橋勝義 執事

現代は様々なストレスを抱え、私達は悩み苦しんでいます。 そこで心を癒すための音楽が生み出されたり、また酸素そのものを吸ってリラックスしたりと色々な方法が考えられています。 しかし残念ながらストレスそのものがなくなる訳ではありません。 ですからこれらは一時的な解決です。 現代人はどの様なストレスを抱えているでしょうか。 人間関係からくる苦しみ。 生きている事に対する憂い。 何もかも煩わしい……。 では福音はあなたにとって何でしょうか?。

神にある自由

イエスが天に戻られてから大分時が経ちました。 時が経つにつれ様々な教えが出て来たのでしょう。 そこでパウロは「福音とは何か」を簡単に分かり易く語りました。

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。 キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、・・」3節

パウロはこの福音を聞いて、その後自分がどの様になったかについても語っています。

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。 そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。 しかしそれは私ではなく、私にある神の恵みです。」 10節

福音を信じた事によりパウロは変わりました。 まず第1に彼は自由になったのです。 イエスの

『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』  ヨハネ8章32節

という御言葉の通りに、彼は真理を知り自由の素晴らしさを味わった訳です。 ですからこの自由を失わない為に彼は懸命に戦いました。 何故彼は戦ってまでも自由を守ろうとしたのでしょうか?

「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。 こうして律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。 私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」ガラテヤ3章23〜24節

彼はキリストに出会う前は『私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていました』と表現しています。 確かに律法によって罪が何であるかを知らされるので、自分の内側にある罪を知る事が出来ます。 罪が示される事により、律法を守らなければならないという強い思いが出てくる訳です。

その様に熱心に守れば守るほど実は「自分が出来ない」事を浮き彫りにされてくるのです。 どうする事も出来ない自分を知った時に(本当の解決を得たい)という思いになり、そしてそれが私達をキリストに導く訳です。 そしてその時に律法が養育係の役割果たす事になるのです。 但し、"本当に律法に聞き従うならば"キリストの所に導く事になるのですが、中途半端であるならば恐らくキリストの所にいこうとはしないでしょう。

何故ならば私達は自分の都合の良い様に解釈して歩んでいくからです。 良いも悪いも自分の良い様に解釈するならば、律法の教えは心に響きません。 それだけではなく、この歩みは心地良いので、いつまでも(そこにいたい)と願う訳です。 これでは律法が養育係としての役割が発揮されないのです。

私達は自由を得た途端に、律法に対してもそうであった様に、"何でも自分の思い通り"に歩もうとしてしまいます。 自由は確かに"自由"です。 「何でもして良いのだ。 何でも出来るのだ。 」とそんな勘違いをする人が必ず出てくるとパウロは予想したのでしょう。

「すべてのことが私には許されたことです。 しかし、すべてが益になるわけではありません。 私にはすべてのことが許されています。 しかし、私はどんなことにも支配されはしません。 」 第Iコリント 6章12節
「すべてのことは、してもよいのです。 しかし、すべてのことが有益になるとはかぎりません。 すべてのことは、してもよいのです。 しかしすべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」 第Iコリント 10章23節

パウロは「全てを自由にして良い」と言っている訳ではありません。 むしろ自由だからこそ本当に何が有益なのか、何が得なのかを気をつけるようにと語っているのです。 その為には絶えず神の御心を求めていく事が必要になってくるのです。 その時に私達の歩むべき道筋がはっきりするのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。 いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」 ローマ12章2節

パウロは『心の一心によって自分を変えるように』と命じました。 それには自分自身を知る事が大切になってきます。 自分自身を知ればきっと変わりたいと思うと思いますが如何でしょうか? それでも"自分はかわいい"から、「変わりたい」と思う反面、「面倒な事はしたくない」という気持ちが働いてくるのは事実です。 でも聖書は願うだけではなく積極的に変えなさいと命じています。 そしてそれを神様は願っているのです。 神の約束は自由にされたあなたがキリストにあって変えられていく事を願っています。 これが自由を得たという事の意味でもあります。

弱きことは強きこと

第2番目にパウロは弱さを誇りました。 私達は様々な誇りをもって歩んでいます。 自分の誇りを守る為、誇りをより確かなものにする為にあらゆる努力を日夜惜しみなく励んでいる様に思います。 しかし困難に直面した時にこの誇りは果たして役に立つでしょうか? 誇りが逆に"自分を苦しめる"結果を生んではいないでしょうか? 「もう少し自分は出来るはずではなかったか」とギャップを感じるのが現実です。 それでいて自分の"真の姿"を知ろうともしないし、認めたくもない。 その中で、もがき苦しむのではないでしょうか。

ではそんなに大事にしているあなたの"誇り"とは一体何でしょう? パウロは人に言えない問題を抱えていました。 彼は真剣に祈りました。 切実なる思いで祈ったでしょう。 そしてその祈りの応えが

『わたしの恵みは、あなたに十分である。 というのは私の力は、弱さのうちに完全に現されるからである。』 第IIコリント 12章9節

と神様からこの様な応えを頂きました。 パウロは改善を求め真剣に祈り願いました。 その応えが「そのままでいい」。 という事は自分自身の事実を弱い部分のある自分を受け取らなければならない訳です。 これはパウロにとっても葛藤があったと思います。 「神様はあなたは『良い』と言うが、私はそれが嫌だから変えて欲しいと祈るったのに、『そのままでいい』という」しかしこの葛藤の中で彼が出した答えは『私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう』と告白したのです。 その理由は

『私が弱いときにこそ、私は強いからです。』 第IIコリント 12章10節

と言っている様にここにパウロの本当の強さがある訳です。 パウロはキリストに出会ってキリストとの交わりが深くなればなるほど、自分の無力さを自覚させられていきました。 現実に私達も自分ではどうする事も出来ないから神に向かっていくのです。 真剣になって求める訳です。 ですから「本当に私は何も出来ませんから神様助けて下さい」と神様に降参すればいいのですが、なかなか出来ない。 誇りとか面子が邪魔をして出来ないのも事実です。

しかしこれでは神の力があなたの内に働く事が出来ないのです。 あなたが弱い時にこそ、もっとも神の力が働く時であり、神の力の素晴らしさを経験出来る時でもあるのです。 だからこそパウロは弱さを誇れるのです。 本当に神の力を経験したいのであれば、自分の弱さを素直に認める事です。 ここから全てが始まる訳であります。

神の恵みが私達を変える

3番目にパウロはキリストにあって生きる事を味わいました。 パウロはキリストを知る前の生きかたを捨てて"神に生きる"時に律法によって律法に死にましたと語りました。 決して律法がいらないという意味ではなくて、律法によって彼が何を味わったか。 先程言った様に「ダメな自分」を知ることが出来たし、またその中で本当の救いを求めていきました。 今度はキリストに出会った事によって自分はキリストと共に十字架につけられ死んだ。 そして今キリストが自分の中に生きているのを味わったのです。

『私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によるのです』とパウロは告白する様になりました。 自らキリストの為に生きることを選んだ事が分りますね。 決してロボットや神の奴隷にされた訳でもなく自らの意思を持ってその生き方を選び取ったのです。 というのは「自分はキリストにあって生かされている」という事が彼の中で受け取る事が出来たからです。 それには自分が十字架の上でキリストと一緒に死んだ事を知らなければなりません。 そして事実死んだ事を認めた時に自分の生き方を捨てなければならない事に気がつきます。

まだ自分が十字架の上で死んだ事を受け取っていないとするならば、キリストを信じていても信じる前と変わらない生活をしている事になるのです。 何故ならば自分がいつもでも主(あるじ)だからです。 キリストを信じましたが、依然として自分が主(あるじ)である訳です。 ですからいつまでも自分が主(あるじ)である間はキリストの命は生かされることは出来ないのであります。

御言葉があなたの中で生きているならば、真理はあなたを自由にし、神の力はあなたの弱さの中に溢れ出る様にされていく訳です。 パウロは『神様の恵みによって今の私になりました』と語りました。 私達は「神の恵みによって自分はそうされたんだ」と是非言えるようになりたいと思います。 そしてパウロは「自分の力でそうなったのではなく、神の恵みによる」とはっきりとと言っています。

ですから心配する事はありません。 私達も神の恵みによって変えられるのです。 これが福音であり、この福音が私達にも宣べ伝えられているのです。 あなたも「神の恵みによって変えられた」と大胆に告白しましょう。
ホームページ | メッセージ一覧 | メッセージダウンロード

このメッセージを読まれたご感想・ご意見をご自由にお寄せください。         こちらまで!

アクセスカウンタ