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2001年2月26日 日曜礼拝メッセージ

「悪霊追い出し!」



 新約聖書 ルカ8章26節―39節 より
 メッセンジャー
  仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

先週はガリラヤ湖での大暴風の中で、イエスが『あなたがたの信仰はどこにあるのですか』と尋ねられたところから学ばせて頂きました。どんな不安な中にあっても、不安であってはならない。神様を信頼するという事はその様な中にあっても平安を持つ事が出来る事だと教えられた訳です。さて今日は悪霊追い出しという事におけるイエスの御力、またそれに対する人々の反応を通して私達も正しい信仰のあり方を学ばせて頂きたいと思います。

悪しき者からの解放

「こうして彼らは、ガリラヤの向こう側ゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」それは。イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。イエスが、「何という名か。」とお尋ねになると、「レギオンです」と答えた。悪霊が大ぜい彼にはいっていたからである。」(26節―30節)

皆さんは“悪霊”をどの様に受け止めていらっしゃるでしょうか?それを素直に信じる方もいらっしゃるし、「いや、それは人の考え方でそう思っているにすぎないのではないか。心理的なものではないか。」と思う方もいるかもしれません。聖書を読んで、“悪霊”と“病気”は同じ事を言っているのだ。と捉える方もいるかもしれません。

聖書を見る限りにおいて病気の状態と悪霊による異常な状態は分けて考えられています。ですからこの箇所に現れているのは、精神的な病の故にとっている行動というよりも悪霊によってその様になってしまっているという事が大きいと思います。ある精神病院での事ですが、霊的な事に関わった方が精神の病を患って入院してくる例も多く、その場合には癒しが非常に難しいという事を聞いた事があります。例えば「手かざしや降霊術」に関わっていたりすると、いくら薬を飲んでもなかなか治らないそうです。悪霊の影響がそこにあるという事です。ですから私達は悪霊に対して正しい対応をする者となっていきたいと思います。

この人は日常の生活が出来ない状況になっていました。異常な性格、家に住む事が出来ず墓場に住んでいた。長い間裸で過ごしています。鎖で繋がれていても、それを切ってしまっていた。悪霊に憑かれている時には正常な判断や行動が出来なくなってしまう。私達はこの様な事を他人事と思いがちですが、私達も影響を受ける事が結構あるのです。

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」(ヤコブ3章14節―16節)

もし私達の心の中に人を羨んだり、憎んだり、妬んだり、嫉妬したりする心がありますと、悪霊の影響を受ける危険性があるという事なのです。そうなりますと、私達は自分でコントロールが効かなくなってきますし、異常な行動や異常な態度をとってしまう事があるのです。そういう意味において、私達自身も注意していく必要があります。私達自身も日々悪霊との関わりの危険の中にあるということです。もし皆さんが、妬みや敵対心、恨み、嫉妬、羨ましいという気持ちに支配されているなら、悪霊の影響を受けるギリギリの所まで来ているという事です。

そしてその心を放っておくと、私達の心の中には悪しき思いがドンドン湧いて来てしまうのです。ですから妬み、敵対心、羨ましいそういった心が出てきたなら、いつも注意をして退けていく必要があります。そればかりではなく、悪しき者は私達が罪を日々犯す様に常に誘惑しているのです。罪はほおっておきますと、段々大きくなって、すぐには処理できないまでに成っていきます。ですから小さいうちに処理をするのが大切です。それには神様に「そういう気持ちと思いを持ちました。赦して下さい。」と告白すれば良いのです。この様に私達が罪をしっかりと悔い改めておくならば、悪しき者は近づけないのです。

小さな犠牲が大きな恵みに変わる

「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚にはいることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。悪霊どもは、その人から出て、豚に入った。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死んだ。飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。」(31節―34節)

「ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスの自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。」(37節)

彼等は目の前で凄い事を見た訳です。豚がいきなり湖に入ったと思ったら、狂人が正気に返って座っていた。素晴らしい事が起きた訳であります。一人の人が縛られていた世界から解放されて正常になった。しかしそこには一つの大きな犠牲がありました。多くの豚が死んでしまった。この時に人々は一人の人の救いと豚の犠牲を考えたのです。「イエスさま、どうかここから去って下さい。ここにこれ以上いないで下さい」と言うのです。どうしてですか? 私達にもこんな危害が加えられると困りますという訳です。彼等にとっては、一人の魂が救われる事よりも、豚の損失の方が大きかった訳です。

さて私達は何を価値基準として歩んでいるでしょうか。折角神様が傍におられて、多くの恵み、豊かな恵みを注ごうとしているのに、(自分に損害や危害が加わる事があってはイヤだ)と言って神様から遠ざかる心が私達のうちにはあるのではないでしょうか? 神様は私達を恵もうとして待っておられます。しかし問題は、たとえ犠牲を払ってでも、「主よ、私はその祝福に与りとうございます」と求める者がどれだけいるかという事なのです。

「だれでもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」(ピリピ2章21節)

本当にキリストを求めているか? 自分の損得においては求めるかもしれませんが、本当の意味で求める事は少ない。神様の大きな恵みに与る為に、しばしの犠牲を払う事があるかもしれません。私達は(自分は犠牲を払いたくない)という思いが強いのです。でももしその結果として無限の神様の恵みを無にしてしまうのなら、なんともったいない事でしょう。神様は私達のすぐそばに来ておられます。「どうぞこの私の内にも来て下さい。」と主を喜んで迎え迎える者とされたいものです。

一人一人の使命

さて悪霊から解放された彼はイエスに『お供をしたいとしきりに願い』ました。自分が癒されたのですから「イエス様、私もあなたに生涯をかけて従っていきたいと思います」と言う訳です。「ではついて来なさい」と言うかと思ったら違いました。

「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんな大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。」(39節)

彼は本当にイエスについて行きたいと思いました。こんな恵みを受けた私。イエスにお従いしていきたい。でもイエスは「あなたはこの地で証をしなさい」と言われた。ある人を神様は伝道者として召すかもしれない。ある人を神様は社会で有用な働きをする方として召すかもしれない。それぞれが神様の召しに与っていくのですし、それぞれがその地で主の証人として立っていく使命が与えられている事を忘れない様にしていきたいものです。

「しかし聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土及び地の果てにまで、私の証人となります。」(使徒1章8節)

イエスの御名に神様の恵みがあり、神様はあなたを様々な縛りから解放します。この神様に従う事により、恵みを受ける事により、私達は豊かに成長し、そしてこの恵みを分かち与えていく事が出来る。一人一人がこの恵みに成長させていただけます様に。
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