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2001年4月8日 日曜礼拝メッセージ

「ゲツセマネの祈り」



 新約聖書 マタイ26章36節―56節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

今日はパームサンデイ「棕櫚の日曜日」と言われています。この朝イエスがエルサレムに入城したからです。人々は「ダビデの子にホサナ」と喜びと歓声を上げながらイエスを迎えました。道路に棕櫚の葉をひきしめ、その上に自分の上着をおき、ロバの子に乗ったイエスが歩いて、エルサレムに入りました。ところが金曜日の朝九時には、イエスは十字架につけられたのです。人の心は直ぐに移り変わります。「ダビデの子にホサナ」と叫んだ口が「十字架につけろ」と叫んだ訳です。今週は受難の主を覚えながら過ごさせて頂き、日曜日の朝に蘇られたイエスの恵みを共に分かち合いたいと思います。

イエスの苦しみの祈り

イエスは十字架にかけられる前の夜、弟子達を集め最後の晩餐を取られました。最後の夜を自分と弟子達だけで共に過ごしたい。そして晩餐の最後にイエスは弟子達に一つの警告を与えます。それが

「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってからあなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」するとペテロがイエスに応えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26章31節―35節)

イエスの警告に対して弟子達は“聞く耳”をあまり持っていませんでした。(自分達はそんな事は絶対しない)と自信を持って神様に仕えていたのだと思います。

「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりといっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみのあまりもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(36節―38節)

この様な所にイエスは何故弟子達を連れていったのでしょうか? 私達は自分の惨めな姿を人に見られたいとは思いません。それを隠しておきたいと思うのではないでしょうか。しかしイエスは敢えて特愛する弟子達に、これからの宣教を担うはずのペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて自分の惨めな姿をあらわにしたのです。これは弟子達に肉との戦いの様相を教えられたのだと思います。イエスは神でありましたが、地上に生れた時には、私達と全く同じ弱さをまとって生れて下さり、戦って下さったのです。ローマ8章5節―7節 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすらに考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

聖書は私達が肉をまっとっている限り、完全に神の御旨に従う事は出来ない。神様に逆らう思いがいつも私達の上にあるのだと語っています。ですから肉をまとわれたイエス様は神の子でありましたが、肉の故に苦しみ、戦いを覚えられたのです。同じ肉を持つ私達がこのような壮絶な戦いを経る事無くして、簡単に神の御旨に従う事が難しいのは当然ではないでしょうか。イエス様でさえも弱さ覚えたのです。そしてゲツセマネで祈りの戦いをしたのです。それは私達も神様のみ旨に従う者とならせて頂くために、祈りの戦いをする必要があることを教えておられるのではないでしょうか。

「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(39節)

イエスがこの地上に来られたのは、私達の罪を赦し、身代わりとなり死ぬ為でした。それが、このゴール間近になったこの時に『この杯を取り去らせてください』と祈るのです。これが肉の本当の姿であります、ここを越えなければ勝利は来ないのです。では私達はどのように、これを越えるのでしょうか。まず、第一にイエス様に習って私達は正直に自分の弱さを告白するべきです。どんなに自分が惨めか、自分が反抗的な者かを。肉をまとっている私達は決して強くはないのです。私達もイエスと同じ様に、「本当に悲しい、寂しい、辛い」と告白して良いのです。でもイエスの祈りはそれでおわりません。『しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください』この言葉が出る迄には、本当に厳しい戦いでがあったと思います。しかしこの祈りをイエスは捧げて下さいました。私達に必要なのも、この様な祈りを心から出す事ではないかと思います。

「イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされる杯でしたら、どうぞみこころの通りをなさってください。」(42節)

『あなたのみこころのように、なさってください』という祈りが『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。』ともう一歩進んだ祈りに変えられました。イエスは初めから十字架にかかる事は分かっていました。でも嫌々ながらでなく、積極的に喜んで従わせて頂く者にならせて頂きたかったのです。私達も肉が砕かれ、その肉が御霊に支配される事がなければ、この様な思いに至る事が難しいのです。そしてこの祈りを完全に終える時に、彼は全ったき勝利が与えられました。最早恐れる事もなく、取り乱す事もない。喜んでその道に進む事が出来る様に変えられたのであります。

イエス様は自ら進んで十字架の道にしっかりとした足取りで進んで行く事が出来ました。自分を裏切る張本人のユダがやって来て『先生お元気で』と近づいて来る。イエス様はここにおいても、『友よ』と呼びかけるのです。本当にゲツセマネを通して、イエス様が全ったき者とされている事を見るのです。

それに対して弟子達は逃げ去ってしまいました。自分の肉の弱さを、知らない、認めない。神の警告の言葉を軽くしか考えなかった彼等は、この様なみじめな行動しか取る事ができなかったのです。しかしこれこそ私達の姿ではないでしょか? 御言葉を真剣に自分にあてはめるよりも、軽く考えて、しっかりと受け取ろうとしない事が多いのではないでしょうか。イエスはゲツセマネを通して、一人一人に救いを与えて下さり、御霊によって罪に打ち勝つ事が出来る様にして下さいました。私達はこのイエスによって罪の支配から解放される事が出来るようにして頂きました。

しかし私達に必要な事があります。それは私達もその力を受け取るために、私達なりのゲツセマネの祈りを捧げていく必要があるとういうことです。私達の肉体は弱いのです。(神の御心がなりますように)と心から祈るのには戦いがないでしょうか? 正直に神様の前に自らの心をそそぎ出していく時、私達も神様に反抗する醜い自己中心の姿、自分の汚さを見せられるのではないでしょうか。(神様になんか従いたくない)それが私達の本音です。でも同時に「あなたの御旨がなりますように」たとえそれがどんなものであったにしても、それがなりますようにと祈る事が出来るまでの祈りの戦いをさせて頂きましょう。そのときに神様は私達も大きく造り変えて下さるのです。神の祝福によりイエスは何も恐れずに、嫌々ながらでなく自ら進んで従って行く事が出来る様になりました。私達に本当に必要なもの、それは、この小さなゲツセマネの祈り「神の御心がなりますように」と心から祈らせて頂く事ではないでしょうか。 

その時に私達自身が喜んで神に従っていく者に変えられるだけでなく、私達に関わる人々までもが神の祝福を受ける事が出来る様に変えられていくのです。そしてこの苦しみの祈りをする事により、イエスがどんなに大きな犠牲と愛を私達の為に払ってくれたのかを知ることが出来る様になるのではないかと思います。
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