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2001年4月22日 日曜礼拝メッセージ

「主に信頼する者の力」



 新約聖書 ルカ9章10節―17節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

前回はイエス様が12弟子を遣わされた事を学びました。今までは一人で成されていた業が、12倍の広がりになりました。そうでなかったなら、全世界にこの福音が宣べ伝えられる事など不可能であったでしょう。神様はこの様に一人一人を活かして下さるのです。今の時代この“一人、一人”は私達です。神様は私達一人一人を遣わしていく事によって、何十倍、何百倍の御業を成す事が出来る。私達一人一人が神の器にさせて頂ければ、とても素晴らしい御業が起こるのではないかと思います。

いつでも迎えて下さる主

イエス様は12弟子達を遣わすにあたり幾つかの力を与えられました。それは悪霊を追い出す力、また病気を治す力も授けられました。この様な力を頂き彼等は伝道に出かけて行きました。人々が大勢寄って来て、病が癒されたり、悪霊を追い出してもらう。そういう状態で伝道の働きが進んでいった時に、彼等に休息が必要な状態になってきました。マルコ伝には『人々の出入りが多くて、ゆっくり食事をする時間さえなかった マルコ6章31節』と記されています。朝から晩まで人々は弟子達にも祈ってもらい、素晴らしい恵みに与りたいとやって来るのです。弟子達は食事も摂れないほど忙しい生活。これが続いたら弟子達が参ってしまう事に気が付いたのでしょう。イエスは彼等を寂しい所に連れて行こうとしました。

「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町にひそかに退かれた。ところが多くの群集がかれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。」(10節―11節)

イエス様は彼らをどうしても休ませなければいけないと思い、ベツサイダへと向かっていったのです。(ベッサイダは人里離れた寂しい所なので、あそこなら誰もいないから、休む事が出来るであろう)と考えたのだと思います。ところが人々はイエス一行がベツサイダに行かれるのが分かると、先回りして彼等の到着を待っていた。(やっと休める)と思って着いた場所は既に人だかりだったのです。私なら「休む為に来たのですから、今日はだめです」と言ったと思いますが、イエス様は再び喜んで彼等を迎えました。イエスはいつでも迎えて下さるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)

ですから遠慮しないで下さい。皆さんに悩みがあるならば、朝でも昼でも夜でも叫び声を上げる事。(こんな私ではダメだ)と思わないで、イエス様にはどんどん向かって祈ってくださればと思います。

神にとって不可能はない

時間はあっという間に過ぎていきました。

「そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群集を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてやってください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。」(12節)

沢山の人がいました。男だけで5000人です。女性が数えられていませんので、実際の人数は分かりません。大変な数がそこにいた事は確かでしょう。日も暮れて来てこの人達をどうしたら良いか?

「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」(ヨハネ6章5節)

イエスが弟子「どうやって食事をさせたら良いでしょう?」と問いかけています。イエスは意味と目的を持ってこの質問をしている訳です。それに対して弟子達は、『この群集を解散させてください。』至極当然で懸命な答えではないでしょうか。イエスの質問に自分達の手には負えないから、それぞれに帰して、自分で休む場所を見つけさせて下さいと懸命な答えの様に思います。しかしイエスはこの時に、


「しかしイエスは彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」(13節)

どうやって食べる物を用意する事が出来るのですか? 一人の弟子は計算して、この群集の多さでは、200デナリのパン(1デナリ=労働者1日分の賃金)でも足りませんと言っています。

「するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群集に配るように弟子たちに与えられた。人々はみな食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。」(16節―17節)

本来は12弟子に分けるだけでも足りない数でしょう。ところが、それを裂いて弟子達に託しました所。大変な奇跡が起きたのです。それだけの食物で、人々がみな食べて満腹し多くのあまりが出たというのです。ここで神様は何を学ばせようとしているのでしょうか。(この記事だけが、四福音書、全部に出ているのです。それ程この事が重大な意味を持っているという事ではないでしょうか。)それはイエスが「どうやってこの人達に食事を与えようか」と問われた事にあると思います。

クリスチャンであっても、悩みも出てきますし、苦しむ時もあるでしょう。困難に出会う事もありますし、絶望に陥る事もあるでしょう。しかしそこで大事なのがこの5000人以上の人が給食を受けた原則をしっかりと見る事ではないかと思います。イエスはピリポに「どうやって食料を手に入れるか」と問いました。その答えは「無理だから、人々を解散させて下さい」でした。イエスはこの答えを聞いた上で、彼等の想像も理解も出来ない事を成させたのです。ここで“神にとって不可能な事は本当にない”と言うことを示したのだと思います。イエスは前もって質問をしたのは、この出来事がきっかけとなり、更に深く考え、そこから悟る者になって欲しいと考えたからではないかと思います。

私達も様々な不可能と思える出来事、絶望と思える出来事。その中で神様を見る事が出来るなら何と幸いでしょう。問題がある時に、私達は問題を通して神を見てしまうのです。するとなかなか神に信頼したり、頼ったりする事が出来ないのではないかと思います。でもその反対に、神を通して問題を見たらどうでしょう? もし私達がそこで神を先に見る事が出来るならば、「神に出来ない事はない」と如何なる苦しみや困難も乗り越えていく事力が与えられるのではないでしょうか。弟子達にこの状況が不可能である事を見させ、それを乗り越える術をイエスが持っていた事実を、彼等によくよく理解させたかったのではないかと思います。

私達も、不可能と見える中にあってなお、神を見上げる信仰を養って頂きたいと思います。“神にあって不可能な事がない”という確信と信仰こそが、如何なる状況にあっても、乗り越えさせていく力となるのです。

あなたの今直面する問題は何でしょうか? 問題を見て、絶望しておられるでしょうか。でも神の側からあなたの持っている問題を見て下さい。神に不可能はあるのでしょうか? 神に出来ない事はありません。であれば私達に必要なのは「主よ、私にそれが出来る力を与えて下さい。」と祈る事ではないでしょうか。あるいは、「この私自身をお捧げします。私を用いて下さい」と祈る事ではないでしょうか。イエスは5000人以上の人をたった5つパンと2匹の魚で養ったのです。神様はあなたを一つのパンとして用いる事が出来るのです。必要なのは、「こんな私ですが、用いて下さい」と委ねる事ではないでしょうか?
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