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2001年5月6日 日曜礼拝メッセージ

「神の栄光の顕現」



 新約聖書 ルカ9章28節―36節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

イエス様は私達を“救う”だけではなく、そこから新しい段階へ引き上げ様として下さっている事を気付いているでしょうか。またそれを真摯に受け留めておられるでしょうか? 前回イエスは弟子達に『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?』と質問をしました。人々は『エリヤ』とか『バプテスマのヨハネ』とか、『昔の預言者』などと言っていました。弟子ペテロの『神のキリストです。』この答えにイエスは満足しました。その時を機会として“十字架の道”を語り始めました。王の王、主の主である方が、酷い目にあうだけではなく、あなた方も『自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』と私達も主の弟子となって歩むべきであると語り始ました。さてその後イエスは約一週間程して弟子達を連れて山に登って行きました。

神に会う備え

「これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光輝いた。しかもふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光の内に現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後についていっしょに話していたのである。」(28節―31節)

ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人を連れて山に行き、祈り始めました。その時にイエス様の姿が変わり始め、更にそこには、イエス様だけではなくて、モーセとエリヤが現れたのです。モーゼは旧約聖書に現れる偉大なリーダー、預言者、神の人です。聖書の最初の創世記から申命記までを「律法」呼ぶことがありますが、これらをモーゼ5書と呼ぶこともあります。エリヤもまた旧約聖書に現れた最も偉大な預言者です。その律法(モーセ)と預言者(エリヤ)が現れたのです。神から二人が遣わされて、イエスとそこでエルサレムでのイエス様の最後すなわち十字架に掛かり死ぬ事について話していたのです。

「ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。」(32節)

イエスが祈り始めた。そうしている内に、恐らく弟子達は眠くなってきたのだと思います。何か不思議な事が起きている様だが、ぼーっとしている。光輝くのを見るのだが、なかなか目が覚めない。やっと目が開けられた時、そこには栄光に輝くイエス様と他に二人の人物がいるのを見たのであう。

「それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきか知らなかったのである。彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、「これは私の愛する子、私の選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした。この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。」(33節―36節)

イエス様とモーセ、エリヤが別れる事が弟子達にもわかったのでしょう。ペテロは何とかして今の状態、即ち神の栄光の輝きを見続けられる状態を続けていたいと思ったのでしょうか。「幕屋を造ってここにいられるようにします」という訳です。しかしこれは何の意味もない事なのです。栄光の身体にある彼等にとって、幕屋など必要ないのです。皆さんクリスチャンは死んだら“神の家”が供えられている事が黙示録に書いてあります。この“家”というのは、「マンション」“邸宅”という意味です。私達にはその場所が備えられいるのですから、ペテロが手で造った幕屋は必要ない訳です。ただ引き止め様として、無意味な事をいったのです。しばしば私達が霊的な備えが出来ていなかったり、心の目が開かれていない時には、とんちんかんな事を言ったり、やったりしてしまうように思います。。さてその時に、雲がわき起こり『これはわたしの愛する子。わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。』という言葉を聞いたのです。弟子達は恐ろしくなって、ひれ伏していました。私達はここから幾つかの事を学ばせて頂く事が出来ると思います。


まず第一に“主の栄光の顕現にあう”と言う事。イエスは12弟子の中で3人だけを連れて山に登り、栄光の姿を拝させました。全員ではなかったのです。他の弟子達は備えがまだ十分に出来ていなかったからではないかと思います。

主に会う備えは主との交わりから

「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くして私を捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29章12節―13節)

もし私達が心を尽くして、主を求めるならば、私達は主を見つける事が出来るのだというのです。あなたの中にこの様に主を切に追い求める心があるでしょうか? ある人は主が与える賜物、平安、喜び、力、奇跡や癒しを求めるかもしれません。でも主ご自身を求める事は少ないのではないでしょうか。?

「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」(ピリピ2章21節)

私達も、「あなたは本当に主を求めていますか」と問われるならば、「そうです」というのが難しいところはないでしょうか。主を求めるよりも他のものを求めている事が多いのではないでしょうか。もし私達が心を尽くして追い求めるならば、私達は主に会う事が出来る。もっと深い意味で主を知る事が出来るのです。この3人の弟子達がどこまでそうなっていたかは、非常に物足りないものであると思います。でも他の弟子に比べ、神をより求める者になっていたから、この“主の顕現”を受け取る事が出来たのではないかと思うのです。。ですから彼等は恐ろしさ畏怖の念心を打たれ、その為に口をつぐんだ。それがどんなに大いなる恐るべき事であるのか、気がついていたからではないかと思うのです。あなたの内には主を求める心がどの位あるでしょうか? クリスチャンでない人にも知られている御言葉に『求めよ、さらば与えられん』という言葉がありますが、この言葉の本当の意味は“主を求め続けなさい”という意味です。一回求めて、直ぐに諦めてしまう。それで私達は主を知る事が少ない。私達が信じて、待ち望んで祈っていく時に、神様は確かに応えて下さるのです。ではそのような交わりをどこで持つ事が出来るのでしょうか。

「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17章20節―21節)

私達は私達の生活のただ中でこの方にお会いする事交わることが出来るのです。私達が出会っている様々な困難や試練や問題、そのただ中で主を切に追い求めていくのです。神様はその中に哀れみを持って現われてくださる。信じるあなた方のただなかに来て下さるのです。この恵みを共に味わいたい。それには“ディボーション”神に一対一で熱中する時が大切です。御言葉を読み、祈る事により、神と交わる。ディボーションを始めると、一人、一人が信仰的にしっかりして来るのです。

ですから、デボーションを持ちはじめますと、必ずと言って良いほどに、様々な方法で止めさせようとする力が働き始めます。それを喜ばないものがいるのです。何とかしてディボーションをダメにさせようと熱心に働き出すのです。でもこの戦いを是非し続けて下さい。遂には、相手が敗れます。なぜなら、イエス様はすでに世に、悪しき者にうち勝っているからです。この戦いに打ち勝っていく時に、生活のただ中で神を体験し、味わう事が出来るようになっていくのです。そうする時に「私は主と日々お会いしています」と言える信仰になっていくのです。そこまで主に求めて続けていきたいと思います。
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