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2001年5月13日 召天者記念礼拝 日曜礼拝メッセージ

「永遠の命」



 新約聖書 ヨハネ3章16節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)

本日は召天者記念礼拝です。一年に一度ですが、先に天に帰られた方を共に覚える事が出来て嬉しく思います。何故ならば“死”こそ私達への最大で最高のメッセージと言えるからです。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは、労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えて下さい。」(詩篇90章10節―12節)

私達は必ず“死ぬ”事を知っています。それを認めていない人は一人もいないと思います。でも「間もなく来る」とは思っていないのも事実ではないかと思います。それで本当に良いのでしょうか? もし私達が自分の日を正しく数える事が出来たなら、私達の生き様も随分と変わってこないでしょうか? もしも残された時が一年しかないとすると、その時間を無駄に過ごしたくはないと考えるのではないでしょうか。ある人にとっては“死”を考える事は「恐ろしい事」「嫌な事」に思えるかもしれませんが、必ずやってくる“その日”に備える。これが本当の意味で豊かな価値ある人生を歩む土台になるのではないかと思います。

死は終わりではなく

「人は死んだら終りで、無である」とか「輪廻する」とか色々な考え方する人があります。しかし聖書には「人は一度死ぬことと、さばきを受けることは定まっている。」のと同時に、人は「永遠に生きる事が出来るし、主イエスを信じて召された者は既に永遠の命に安らいでいる」と語ります。ある人は「私は永遠の命など必要としていません。60〜70年で十分です」と言うかもしれません。ここでいう“永遠のいのち”とは、私達が通常指す“命”を言っているのではありません。この箇所は“アイオニオス”という言葉が使われています。それは、『全く別の種類、別の次元のいのち』という意味で、それを“永遠のいのち”と日本語に訳した訳です。更に言いますなら、私達は(今、自分が生きている)と思っています。ところが聖書は、その様ないのちは本物のいのちではないとすら言っているのです。別の言葉では「神のいのち」。だから“永遠”なのだということもできると思います。。後の日(主の再臨の時)には、魂だけが永遠に生きるのではなく、さらに栄光の身体が与えられると、約束されているのです。キリストが再び来られる時に、私達キリストにあって死んだ者が栄光の身体に変えられるのです。

私たちを愛している存在

さて今日の箇所で強調している事が2つあります。一番中心的なのは“愛された”という事です。神は“愛された”。「あなた」をです。「私達」をです。聖書を通して神が語っている第一は、神は私達を愛しておられる。と言うことです。もう一つは“お与えになった”何をお与えになったのでしょうか?

かけがえのないもの=ひとり子

をお与えになった。神がそのひとり子である、イエス・キリストをこの地上にお与えになった事を語っているのです。それは私達を愛した結果だからです。神は私達を愛された。ですから神はこれ以上ないという程のプレゼントを与えたのです。“愛”はどの様にしたらその深さが分かるのでしょうか? それはどれだけの「犠牲」が払えるかではないでしょうか。それにより、愛の内容が深さがわかるのではないかと思います。


作家の三浦綾子女史は自伝の中で神を信じた経緯を語っています。彼女は熱心な小学校の教師でした。終戦になり、教師を辞め非常に乱れた生活になっていった。あまりにもすさんだ生活を見て、幼馴染のクリスチャン前川正さんは、一生懸命に立ち直らせようと何度も働き掛けるのですが、綾子女史は全然気に留めない。ある日前川氏は石を取り、自分の足を打ちつけ始めた。「私は一生懸命に綾子さんに神様の愛を語ってきたけれども、私は綾子さんをどうすることも出来ない、不甲斐ない自分を痛めているのです」その時に綾子女史は、男女を越えた深い愛を感じ、(前川氏の信じている神に従ってみよう、信じてみよう)と決意したと記しています。前川氏は自分の身体を傷つける程に綾子女史を愛していたのでしょう。そして前川氏以上に、イエス・キリストが、神が、三浦綾子女史を、そして私達一人、一人を愛して下さっている事を是非知って頂きたいのです。何故ならば私達がその愛をしっかりと心に受け止める事が出来るならば、その時から生きる力、前に向かっていく力が湧きでて来るからです。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43章4節)

この世は偏差値、や成功、不成功、勝ったか負けたかでで評価をします。でもそれとは、全くかけ離れた尺度で私達を見てくれる方がいる。その方はあなたの人生に目を留め、あなたの人生を、(豊かなものになって欲しい)と願っているのです。

イエス・キリストがこの世に来たのは、『羊(私達)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです』と語っています。皆さんは「私の人生は本当に豊かだ」と言いきれる程に充実した人生を歩む事が出来た人はどれ位いるでしょうか? 一生懸命に頑張ってきた方は確かに沢山おられると思います。でもそれが本当に“豊かなもの”であったかというと必ずしもそう言うことが出来ないものではなかったでしょうか。? ですから神は、私達が「生きる意味と目的」を持った生き方に導こうと御子イエス・キリストをこの地上に送ったというのです。イエス様は2000年前に、病気を癒したり、盲人の目を開き、手足の不自由な方をいやしました。しかしそれを妬んだ者達により、十字架につけられ殺されたのです。しかしこの方は死ぬ以前から「私は十字架に掛けられて死ぬが、三日目に死から蘇り、あなた方に永遠のいのちを与える」と語っていました。それは本来この十字架は私達が自分の罪の結果として受けなければならないものであったからです。

聖い神がどうしても受け入れることのできないものとして“罪”があります。罪があると神は私達をそのまま受け入れる事が出来ません。しかし、神は愛の方です。この相矛盾する事柄が同時に成り立つ為に、十字架があったのです。私達の罪の身代わりとして、イエス様が死んで下さった。そしてその愛を全ての人に、どんな人にでも分け与える事が出来る様にして下さったのです。求めるならば、だれでも“永遠の命”を受けられようにして下さったのです。

故人達はイエス・キリストの救いを受け入れられて、今、永遠のいのちに生きています。そこでは最早苦しみも涙もありません。本当に平安と安らぎがあります。そして神様は私達にもまた、その永遠のいのちを備えられたのです。神は十字架の犠牲の中に愛を現されたので。もし皆さんも心を開いて、イエス・キリストを救い主として受け入れられるならば、その愛を体験し、人生を変えて頂く事が出来、困難や苦しみがあってもさえも、それに勝る平安、永遠のいのちを味わう事が出来、後の日には、親しき故人とも再会することが出来るのです。共にこの恵に与からせて頂きたいと思います。
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