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2001年 5月20日 日曜礼拝メッセージ

「あの人この人」



 新約聖書 ヨハネ21章15節―23節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 高橋 勝義執事

私達は一流企業とか、肩書や地位、有名な学校を出ているとか、そういう事でつい人を評価してしまいます。その為に、私達は人の目を気にしながら生きている。結果として劣等感にさいなまれてしまう事になるのです。私達の罪の性質が優劣をつけたがっている事によって、自分の存在を示そうとしている所に問題があるのです。

復活の主と弟子たち

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20章19節)

弟子達はイエスの死後、不安と恐れから家の戸を閉め、物音を出さずにじっとしていました。そんな時にイエスが皆の前に現われます。復活の主に出会った彼等はとても喜びました。イエスは弟子達に向かい、『エルサレムを離れずに、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。使徒行伝1章4節』と語りました。復活の主に出会い、この様に言われた彼等ですから、きっと祈りと賛美をもって、イエスの約束を信じ待っていたのではないかと思うのですが、そうではなかったようです。彼等は郷里に帰り漁師の仕事を再開していたのです。イエスは何も捕れずにがっかりしている弟子達の前に現われました。

イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることが出来なかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛びこんだ。

ペテロは“裸”を恥じたのではなく、むしろ主の約束を信じて待てなかった自分を恥じたのではないでしょうか。そして彼等は戸惑いからくる沈黙と静寂の中でイエスと一緒に食事をする事になりました。イエスは彼等のとった行動を全く責めなかったのです。弟子達は自分達の行動が受けられれば受け入れられる程、却って主の約束を信じて待てなかった自分達が許せない、情けないという思いであったかもしれません。そしてイエスはペテロに尋ねます。

「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛するか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(15節―17節)

弟子の中でペテロの行動は目立っていました。ペテロは『あなたは生ける神の子キリストです』と素晴らしい信仰告白をしました。と思えば今度はイエスから『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』(マタイ16章23節)と激しく叱られました。また『たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。』(マタイ26章33節)とイエスに対して熱き思いを彼は語りました。それに対してイエスは『まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』と厳しい現実が待っていると知らせます。そして預言の通りに、「主を知らない」と言うだけではなく、『すると、彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。』(マタイ26章74節)その姿を見て、イエスの言われた言葉を思い出し、激しく泣きました。ペテロはそんな今までの歩みを思い出し、また認めて『だれよりもあなたを愛します。いっさいのことをあなたがご存知です』と語ったような気がするのです。イエスが三度聞かれたのは、ペテロに再献身を迫る為であり、召しの再確認でもあったのであります。

「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのをみた。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(20節―23節)

彼は再決心、再出発で素晴らしい事を語りました。でもその直ぐ後に、彼は他人が目に入ったのですね。『主よ。この人はどうですか。』と他人が気になったのです。私はペテロの中に人間臭さを感じます。と同時に自分の信仰の姿勢を問い掛けられている様な気がします。何故ならば私達は比較社会の中に生きているので、常に優劣をつけたがるのです。この優劣が自分の存在を確かめ、また自分の存在を示そうともしている訳です。私達の内にある罪の性質が優劣をつけたがり、ウズウズしている。誰でも、人よりも上にいたいというのが本音ですね。そして自分の存在を認めて欲しい訳です。比較信仰には自分の弱さを隠すためであり、劣等感の現われでもあるのです。この比較信仰は私達の歩みの中に深く入り込んでいる事に、気がついているでしょうか? ではどうすれば比較信仰から解放されるのでしょうか?

比較信仰からの解放

第1番目には、“神が全てを知っておられる事”を信じる事です。褒められる事は自分のした事が正当に評価されたと受け取ります。それは自分の存在が認められた事にもなります。その反対に自分のした事が評価されずに、苦労が報いられないと、(あの人よりも自分の方が一生懸命にやっているのに)と比較が始まるのです。確かにあなたは一生懸命に働いたでしょう。もしかしたらあなたの知らない所で“あの人”は働いているかもしれません。

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4章13節)

会社員であった頃、外出している上司から電話があり、「○○はいるか?」と聞かれました。私が「今席を外しています」と答えると、「各階を回って遊んでくるな。その後にタバコを買って戻ってくるのであろう。まったく仕方がないな」と言ったのです。彼は、自分の行動が上司に知られているとは全く知らずに買ってきたタバコを手に意気揚々と自分の席に戻りました。この世であってもこの様に知られているとするならば、私達が神の前に立つならばどうでしょうか? 本当に神は全てを知っておられる事を信じて歩む事が如何に大切かが分かってきます。

第2番目に“神の前に忠実に歩む事”です。神はタラントの例え話しの中で、5タラント儲けた者と2タラント儲けた者にこう言います。

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25章21節、23節)

これは5タラント儲けても、2タラント儲けても同じ様に語られた言葉です。これは、儲けた金額の多さではなく、与えられた賜物を忠実に用いるかどうかが問われているのです。あなたが神から与えられた“タラント”つまり賜物に対して、忠実に歩む事が求められているのであって、社会や教会に大きな影響を与える様な、何かそういった働きをしたかとか、沢山の奉仕をしたかではない事がこの所から分かります。

「小さい事に忠実な人は、大きな事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実です。」(ルカ16章10節)

“忠実である”というのは、意外と簡単な様に見えますが、中々出来にくいのも事実です。では忠実な歩みをする為にはどの様にすればよいのか? 神があなたに与えて下さった賜物を自覚する事です。神が与えられた賜物を用いる時に、心からの喜びが湧いてきます。それはあなたの奉仕が人への奉仕ではなく、神への奉仕に変わったからなのです。人の目を気にするのではなく、神の前に捧げられる奉仕だからこそむしろ喜んでより一層働く事が出来る様にもなる訳です。あなたは自分に与えられている賜物を自覚しているでしょうか? 賜物はあなたの歩みが、“人”から“神”に変えられる為に必要なものであります。賜物が更にあなたを忠実な歩みへと導いていくからです。

ペテロは「主よ。この人はどうですか」とイエスに問いました。あなたが“あの人”、“この人”を意識した歩みではなく、神に向いた歩みをする事を願ってイエスはペテロ同様あなたに向かって『あなたは私に従いなさい』と命じているのではないでしょうか。人の目を気にする歩みは、自分の弱さや劣等感を隠す為に逆に相手を責める歩みにもなっていきます。この比較信仰をこのまま放っておくと、私達の歩みの中に裁き心が起こり、支配され振り回されていくのです。更にそこから憎しみや恨みが入りこみ、私達の信仰の成長が妨げるようになっていくのです。“あの人”、“この人”その思いから解放されるには、神は全ての事を知っておられる事を知ることであり、また神の前に忠実に歩むことなのです。あなたの関心は今何処にあるでしょうか? 人でしょうか。それとも神でしょうか?
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