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2001年6月3日 日曜礼拝メッセージ

聖霊降臨



 新約聖書 使徒2章1〜13節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田耕三牧師

本日は“五旬節”或いは、“ペンテコステ”と言われ、イエス様が十字架にかかり、私達の罪の身代わりとなって下さり、更によみがえって、40日人々に現れ、そして、弟子達に、聖霊を注ぎ出してくださった記念の日、神様の特別な祝福の時です。“五旬節”は、大麦を刈り始めてから50日目にあたります。別名「七週の祭り」とも呼ばれ、ユダヤの三大祭りの一つです。今日私達はペンテコステの真の意味を知り、恵みをしっかりと受け留めさせて頂きたいと思います。

御霊を受ける

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡って。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(1〜4節)

イエス様は弟子達に『わたしがこの世を去るのはあなたがたにとって良いことです』と言われました。何故なら、それがなければあなたがたに聖霊が注ぎだされないからです。聖霊が注ぎ出される時に私達は新しい力、新しい命、新しい喜びを与えられ、神に従う者が新しくされ、人生の大きな転機が訪れると語っているのです。そして十字架に掛かり、三日目に蘇り、40日間多くの人に現われました。天に帰っていかれる時にイエス様は言われました。

「さあ、わたしは、わたしの父が約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24章49節)

この仰せに従い、弟子達はガリラヤには戻らず、エルサレムに留まりそして主を待ち望んでいたのです。その日は五旬節と言われる祭りの日でした。何が起きたのでしょう? 風が吹いて来るような“響き”が起こりました。更に驚くべき事が起きます。赤い炎の様なものが現われて、一人一人の上に留まった。更にもう一つ不思議な事が起きました。多くはガリラヤの出身であった彼等が、他国の言葉で話し出した。突然知らない言葉を語り始めたのです。

「私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、」(9〜10節)

当時の全世界の人々が来ていて、彼等が弟子達が自分達の国言葉話すのを聞いたのです。バベルにおいて、乱された言葉が、神様の恵によって、本来通じ合わない人々にも神様の良き訪れが語り伝えられたのだと思います。彼らはこの時何を語ったのでしょうか。私は間違いなく、神の福音、「よきおとずれ」を語ったのだと思っていますす。これは本当に驚くべき事であり、人々は皆びっくりしました。それである人は酒に酔っているのだとあざけったのです。そこでペテロが立って

「これは預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(16〜18節)

と語ったのです。これは終りの日には、全ての人に神の霊が注がれるという預言の言葉であり、今「その事が起きた」とペテロは皆の前で証を始めたのです。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5章18節)

エペソの教会はコリントの町のような乱れた教会ではなく、立派な教会でした。ところが乱れたコリントの教会にではなく、立派なエペソの教会に『御霊に満たされなさい』と語るのです。ですから、これは誰もがいつでも必要としているメッセージなのです。クリスチャンが本当に生き生きとした喜びのある歩みをするためには、御霊に満たされる事がどうしても必要だと語るのです。

聖書の中に沢山の素晴らしい戒め、大切な戒めがあります。例えば『互いに愛し合いなさい』。或いは『十戒』も大切です。『へりくだって人に仕えなさい』等、聖書の戒めは全て大切ですので、“一番”と言う言い方は適切ではないでかもしれませんが、敢えて一番大切な戒めはと言えば、この『御霊に満たされなさい』ではないかと思います。もし御霊に満たされたなら、他の戒めは自動的に守ることができるようになるのです。もし私達が御霊に満たされたなら、自然に人を愛する様になるでしょう。また喜んで人、仕える人になると思います。また人に親切にもなると思います。自然に人を赦す様にもなるのです。

色々な戒めは大事ですし、守る事も良い事ですが、でもクリスチャンとして歩む上において一番忘れてはならない事はこの『御霊にみたされる』という事です。もし私達が神の御霊に満たされるならば、私達は変わるのです。御霊に満たされる事はクリスチャンがクリスチャンとして生きるためには必要不可欠なのです。御霊に満たされずにクリスチャン生活を歩もうとすると、難行苦行です。「愛さなくちゃ」「赦さなくちゃ」「仕えなくちゃ」「あれをしなくちゃ」「これをしなくちゃ」これではクリスチャンではなく、「苦しいちゃん」です。私達に必要なのは、御霊に満たされる。それも“御霊に満たされ続ける”事が大切であるとしっかり覚えて頂きたいと思います。ではどうしたら御霊に満たされるのですしょうか? 

御霊に満たされる

御霊は誰か特別な人にだけ注がれるのでしょうか? いいえ、信じる全ての人です。あなたも例外ではありません。(あの人には神の恵みが注がれるかもしれないけれども、私には無理だ。)と思ってはなりません。折角御霊に満たされるのに、(私はダメだ)と後ろ向きになり、頂ける恵みを無にしてしまっている事が多い用に思うのです。あなたの内にも“聖霊が注がれている”事を知っていただきたいと思います。しかしここできちんと分けなければならない事があります。御霊を受けるという事と、御霊に満たされるというのは、別です。


御霊を受けるにはどうしたら良いか? 皆さんの中で“御霊を受けているかどうか分からない” と言う方はよく聞いて下さい。自分が赦されなければならない罪人である事を認め、イエス様が自分の罪の身代わりとして十字架かかり、救いを成しげて下さったと信じ、イエス・キリストを救い主又人生の主としてお迎えしたならば、その日からあなたは神の子供であり、あなたの内には聖霊が宿っているのです。なぜなら、

「誰も聖霊のよらなければ、イエスを主と告白することが出来ない」(Tコリント12:3)からです。また罪があると神の愛も恵みを分かりません。イエス・キリストを救い主として信じられるならば、もしまだ自信がない方は、確認のために、罪を告白して「私に内にも来て下さい」と祈ってみてください。神様は、約束を決して破りませんから、あなたの内にも聖霊が来て下さいます。

ただそれだけでは、来て下さってはいても、まだ満たされてはいません。私達が本当に神の恵みを味わわせて頂く為には。満たされるという事が必要です。例えばコップに「水が入っている」というのと、「水が満ちている」のは違います。満たされていると、それは、溢れ出てきます。満たされていないと、喜びや力が溢れたり、生き生きとした生き方にはなかなかならないのです。ではどうしたらその様になれるでしょうか? 第1に、使徒行伝1章で、弟子達が待ち望み心を1つにして祈っていた事が記されています。あなたも(喜びがない。力がない。神様、御霊に満たして下さい。)と大胆に主を求め、待ち望む事が大切でありましょう。

第2番目に、御霊は聖い神様ですから、イエス様の十字架によって罪が赦された者の内にしか住むことが出来ません。イエス様が地上で十字架に掛かり、私達の罪の贖いを成し遂げ、天に帰って初めて聖霊が注ぎ出されたのです。ですから、もしあなたの内にある罪を、告白し聖めらないならば、満たされないのです。あなたには自分の罪を告白するという作業が必要になってきます。

「もし、私たちは自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第Iヨハネ1章9節)

神様は聖霊によってあなたの罪を示されます。その罪を正直に「そうです」と告白する事です。あなたの内で(これは罪だな)(私は今神様に反抗している)(妬んだな)(嫉妬しているな)色々な罪が思い出されたならば、直ぐに「その通りです」と告白する事を忘れないで頂きたい。それを放っておきますと、段々鈍くなって分からなくなってしまうのです。そうなる前に罪の告白をする。神様がちょっと触れたら、直ぐに「その通りです」と告白する事が大事です。そうすると神は『真実で正しいお方ですから、その罪を赦し、すべての悪からあなたを清めて下さいます』。難しい事は言っていません。本当に自分の姿を正直に告白する。それだけで神様は十字架の故に、赦し、清める事が出来るのです。

ここでもう一つ、告白したものは、“赦された”と受け取る事を忘れないで下さい。告白まではするが、信仰によってその赦しを受け取らない方が結構います。告白したら、神様は赦して清めて下さると約束してくださっているのです。「もう清められた事を感謝します。」との祈りをなさって下さい。イエス様は十字架上で「すべては終わった」と言いました。すでに赦して下さった過去の事をひっぱり出してはいけません。

3番目に必要な事は“御霊に満たして下さいと祈る”事です。「どうぞこの私を御霊に満たして下さい」と日々祈って下さい。私達はつい億劫になって、そんなに満たされ続ける事など出来ない。と勝手に神様の業を割り引きして考えて(出来ない)という思いになってしまう。「たまに満たされたら良いです」とは言っていないのです。満たされなければ、「満たして下さい」と祈る事。その時に必要なのは、(神様に対する告白する罪が何かあるであろうか?)もし思い当たらなければ、直ぐに「では御霊に満たして下さい」と祈ったら良いのです。

「何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いをかなえて下さると言うこと、これこそ神に対する私達の確信です。私達の願うことを神が聞いて下さると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられた知るのです。」(第Iヨハネ5:14〜15節)

ですから、祈ったならば「主よ、今私を御霊に満たしてくださった事を感謝します」とまた祈って頂きたいのです。

また“御霊に満たされる”とは別な言い方をしますと、私達の全てを明渡す事であるということでもあります。 コップに水を満たすには、コップの空気を全部追い出さなくてはなりません。私達も御霊に満たされる為には、私達の全てを主に明渡していく事が必要になるのです。私達の自我は(そうしたくない)と思うのです。私達は別に握りしめている物はないと思っているますが、いざ「捧げなさい」と言われると、(いやだ!)という気持ちになるのです。でもこの葛藤を是非なさって下さい。そして最終的には「委ねます。お捧げします」と祈る者になって頂きたいのです。その時に神様は明渡していった分に応じて御霊の満たしを体験させて下さるのです。

私達が神様の愛、力、恵みが分からないとするならば、それはまだ明渡しが十分出来ていないからではないでしょうか。自分の思い、自分の考えが強く、自我の道をまっしぐらに歩んでいるのであって、神に従う気持ちがないからではないでしょうか。明渡していく時に、神様は私達を満たしていって下さるのです。決して簡単ではないかもしれません。時には涙することがあるかもしれません。でも私の経験では、その結果は何十倍にもして返して下さいます。

私達が明渡す時に、もっと優れた素晴らしい物を下さるのです。皆さんの前に二つの道があります。一つは御霊に満たされ続け、神様に従って行く道。でもその為には明渡す必要があります。明渡さないからといって神様は無理矢理強制的に何かをする方ではありません。でもそこには、虚しい自由、満たされない思い、何をやっても本当にこれで良いのだという確信が持てない。神の恵みを十分に味わえないクリスチャン生活しかないのです。あなたはどちらの道を歩んでいこうとしていますか? ペンテコステの恵み。それはすべての人に開かれています。要はあなたがそれを受け取るかどうかです。共に神様が備えて下さった祝福を豊かに受け取る者になって行きたいと思います。
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