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2001年7月1日 日曜礼拝メッセージ

「愛するとは」



 新約聖書 ルカ10章25〜37節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

私達の信仰生活に全ての事が目新しく喜びに溢れる事もあります。しかし反対に聖書を読んでも新鮮味に欠け「もう分かっている」と言う思いが強くなり、感動して読む事が出来ないと言う時もあります。今日の箇所はその様な所から解放される秘訣が記されているように思います。

あなたの隣人とは

「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生、何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』と書いてあります。イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」(25〜29節)

多分律法学者の事であろうと思いますが、イエスを『試そうとして』とありますから、よくない動機であった事は分かります。しかし『何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』との問いの中には、ある程度真実な求めや疑問もあったのではないかと思います。 彼には自分が“永遠の命を持っている”という確信はなかった。だからこの質問が出て来たのだと思います。イエス様は、『律法には何と書いてありますか。』と聞くと、彼は『『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。』これは見事な答えです。

彼はこれを直ぐにはっきりと答えました。そしてイエス様は『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』と答えました。(あれ?)と思いませんか。「律法によっては救われないはずではなかったかな?」確かに 私達は律法的にいうなら、誰も救いに相応しい程に聖い者はいません。ではなぜイエス様は「それを実行すれば永遠の命を受けられます」と言ったのでしょうか? それはこの人に自分の本当の姿を教えようとしたからではないかと思うのです。

日本の諺にも「言うは易し、行うは難し」とあります。やってみて初めて私達はその難しさが分かるのです。それでイエス様も彼に実行させようと思ったのでしょう。ところが彼は『しかし、彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」』この言葉の言い方は「既に自分は実行しています。普段から心がけています。何か落ち度があるでしょうか?」という事です。これは考えてみるとすごい答えですね。

真実な姿は違ったかもしれませんが、彼は表面的にはこう言える程に正しく歩んでいたと言うことです。それでイエス様はもっと彼の本当の姿を教えようと一つの話しをされたのです。

「イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて言った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れていき、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡していった。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」(30〜35節)

“良きサマリヤ人”として有名なお話であります。ユダヤ人とサマリヤ人は非常に仲が悪かったのです。エルサレムからエリコに行くには大変な断崖で、高低差1000m以上もあり、岩場や危険な箇所があるのです。近代ですらこの地を歩くのは危険だと言われているほどです。当時から追剥や強盗が現われる危険な場所でした。

そこで一人の人が強盗にあい、身ぐるみ剥がされ、半殺しの目にあい倒れていた。そこに通りかかったのが神様に仕える身分の祭司です。今でいう“牧師”のような立場の人です。彼は見て見ぬ振りをして通り過ぎて行きました。「私は聖い者だから、汚れたものに触れると神様の働きにつけない」そんな理屈をつけたかもしれません。

次にレビ人。教会に仕える人と言ったらいいでしょうか。その人も見るとすぐに場所を変えて反対側を歩いて行ったのです。ところが、犬猿の仲のサマリヤ人は『彼を見てかわいそうに思い、』そして『近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してや理、・・もっとかかったら、私が帰りに払います』と言ったのです。本当に優しい方ですね。ここまで話してイエス様は律法学者の彼に聞きます。

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(36節)

「誰が隣人ですか?」と聞いてはいません。「隣人になった」のですかと聞いているのです。私達は隣人になるのです。自分から進んで何かをする事により、隣人になるのです。

「彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じ様にしなさい。」(37節)

律法の専門家はおそらく家族に対しても、知人に対しても悪い事も意地悪もしていない。だから、この「愛しなさい」という事を守っていると思っていた。でもイエス様はそういうレベルの事を聞いているのではなく、「本当に犠牲を払ってでも何かをするという愛があなたの内にありますか? 隣人を愛するとはそういう事です」と教えたのです。 今日はここから3つの事柄を学ばせて頂きたいと思います。

隣人を愛する為に必要なこと

まず第1に私達は御言葉をどう読んでいるかです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するためにきたのです。まことに、あなたがに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5章17〜18節)

私達はイエス・キリストによる罪の赦しを聞いています。確かにイエス様の十字架により、罪が赦されたのです。だからといって、「罪は赦されるのだから何をやっても良い」というのは間違っているのです。ともすると私達はその考え方に落ちいってしまう可能性があります。私達は神様の恵みで赦されたのだから、神様がより喜んで下さる道を歩む事を求めていく事が必要です。私達の足りない部分を、イエス様は十字架で日々贖い続けて下さっているのです。

私たちは頑張っているつもりでも不充分な歩み方ばかりです。私達は御言葉を変えてはなりません。「隣人をあなた自身のように愛する」それは神の御心です。ですから、そうなっていないなら、私達は悔い改めるこ事が必要なのです。神様によって日々赦され贖われて行かなければならないと認める事が大事なのです。私達は認めない時に平気で御言葉を否定して変えてしまうのです。「出来ない」「それは誰もやっていない」色々理屈を言います。私たちにはそのような言い訳は必要ないのです。正直に「それが私の罪なのです。」と認めれば良いのです。何故なら、その罪はイエス様が十字架の上で既に全部聖めて下さっているのですから。御言葉を変えたり、割引したりして、折角の神の祝福、恵みをだいなしにしてしまう事がないようにしたいものです。

また御言葉をきちんと受け止めないのと私達は自分の罪の姿が見えないという面があります。御言葉を自分の都合のよい様に読むと自分に「悔い改めが必要」な事がぼやけてくるのです。だから御言葉をきちんと読むと(私は聖められなければならない罪人である)と気付かされていくのです。

2番目に、この青年はそう言われながら、『守っています』と答えるのです。でもここでイエス様は、“愛の質”を問うてサマリヤ人の話しを始めたのです。

「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じ事をしているではありませんか。」(マタイ5章46節)

私達に親切にしてくれる人に対して親切にするのは当たり前の事です。しかし聖書が言う良い事とは、私達に敵対する人の為にどう対処するかです。聖書は

『あなたの敵対する人を愛し、迫害する者の為に祈りなさい。』

と語ります。敵の為に良き業をし、犠牲を払う事が出来ますか? このサマリヤ人とユダヤ人の例え話はそういう関係です。敵である者が倒れていた。(いつもの報いがきたのだ)と思うのが普通でしょう。しかし彼は“敵”を可哀想に思った。自分に良い事をしてくれる人に良い事をして、それで自分を褒める事は出来ない。自分の敵を愛し、迫害する者の為に祈る事が神様の基準です。そういう意味で「あなたは隣人を愛していますか?」と問われるなら言葉が出なくなるのではないでしょうか?

彼も『だれが彼の隣人になったと思いますか?』と問われて、『あわれみをかけてやった人です』と答えずにはいられなかった。私達も隣人を愛するとはここまで、即ち敵の為に痛みを受け犠牲を払うことを覚悟することであることを覚えたいものです。

最後三番目にこの“サマリヤ人”そして“強盗に襲われた人”とは誰の事を指しているでしょうか?私達はついつい自分がサマリヤ人の立場になって、人に良い事をするなんて思いますが、私達に必要なのは、自分こそが「追い剥ぎにあって生きる力もなくなって、半殺しの目にあっている襲われたユダヤ人である事」を認める事です。

私達の心は悲しみや痛みで引き裂かれ、ずたずたにされている事はないでしょうか? 私達自身が癒されなければならないのだ。そう読む時に私たちに対する麗しい神様の姿がここに感じられるでしょう。『オリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、デナリを二つ取りだし、もっとかかったら私が代わりに払います』こう言って下さる方は、私達の為に贖いを成してくれたイエス様を思い起こさせます。

あなたが惨めで悲しくても、どんな中にあっても、イエス様は全部赦し、その代価を払って下さる。痛みを受け、犠牲を払う覚悟を持ってイエス様は私達に接して下さっている。この愛をもっとしっかりと受けるべきではないでしょうか? その時私たちも本当の意味で隣人を愛するという聖書の語る、あるべき人間になっていく事ができるのではのではないかと思います。自分が赦されている、愛されていると言うことを受け取る時に、初めて私達も他の人を愛して行く備えが出来るのではないでしょうか。
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