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2001年7月8日 日曜礼拝メッセージ

「ペテロの謙遜」



 新約聖書 マルコ6章45〜52節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 高橋 勝義執事

辞書で「謙遜」ということばを引いてみると、「相手を敬い、自分を控えめにすること」「控えめな態度をとること」と書いてあります。“控えめ”とは、自分の方が相手よりも上であったとしても、時と場所、相手との立場等を考え、自分を抑え、自分を出さない様にする。これはあくまでも、人と自分との関わりの中での“謙遜”となる訳です。

では聖書の語る“謙遜”とは何でしょうか? 人が神の聖さ、正しさ、愛に触れた時に、自分の姿が汚れていて、罪に満ち、自己中心である事を知らされるのです。そしてその時に(こんな罪人の私を憐れんで下さい)と神様からの赦しをひたすら求める様になっていくのです。これが神様との関わりの“謙遜”と言えます。あなたが人の方を向いて歩むのか、それとも神の方を向いて歩むのかによって、同じ“謙遜”であっても、全く違う謙遜になってしまうのです。

湖上のできごと

「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群集を解散させておられた。それから群集に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通りすぎようとのおつもりであった。しかし。弟子たちは。イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。」(45〜48節)

イエスは空腹を満たした群集を解散させました。大きな働きを行った後はそれだけ、誘惑も激しく襲ってくるのであります。イエス様は一人静まり、神の前に祈る必要を感じられたのでしょう。静まる場所を求め、弟子達と別れて、一人山の方に向かわれました。

舟に乗った弟子達は、舟が湖の真中にさしかかった頃、向かい風が吹き始め中々前に進まなくなりました。夜中の3時頃になり、イエス様は湖の上を歩いて弟子達の舟に近づいて行った時の事です。弟子達はイエス様を幽霊と思い叫び声をあげた。彼等の驚きは、異常なものであったようです。

弟子達はイエス様が5つのパンと2匹の魚を用いて、多分一万人程の群集の空腹を満たしたその現場にいました。一番近くにいて、一部始終を見ていたのです。彼等はイエス様の素晴らしい御業を見ていた訳です。とするならば例えイエス様が“湖の上を歩いていた”としても驚くはずはないのに、彼等は驚き怯えたのです。

「そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。」(51〜52節)

何故彼等は恐れ、心が閉じていたのでしょうか? ヨハネ伝の同じ記事を見てみましょう。

「そこで、イエスは人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6章15節)

人々がイエス様をローマの国から「自分達を救い出してくれるお方」と期待していたので、“王”にしようとしていた事が分かります。イエス様はこの期待に応える為に地上に来たのではありません。ですから一人山に行って祈る為に、群集を解散させ、弟子達を強制的に舟に乗りこませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせたのです。

イエス様は人々の思いが神様の御心からあまりにもかけ離れていたので、神の御心を再確認すると同時に、「御心が行う事が出来る様に」と祈ったのではないかとそんな気がします。祈り終えたイエス様は湖の上を歩き、そのままそばを通り過ぎようとしました。パンの奇跡を見ていた弟子達はイエス様が湖の上を歩いているのを見た時、非常に驚いた顔をしていた。もしかすると弟子達の思いと人々の思いはあまり変わらなかったかもしれません。またはイエス様を“神の子”と信じてはいたが、イエス様が自然をも越えたお方として信じる信仰がなかったので、幽霊と思い叫び声を上げたのではないでしょうか。

ペテロの謙遜

今日の聖書箇所を書いたマルコは、ペテロの通訳者として行動を共にしていました。後になってマルコはペテロの弟子になりました。ペテロは必要に応じて、主が語った事や行った事を教えました。マルコはペテロが思い出すままに語った事を何一つもらさない様に、何一つ過った記述をしないようにと書き記した。それがこの『マルコの福音書』です。


ペテロは5つのパンと2匹の魚の御業を一部始終見ていました。それなのに、イエス様が湖の上を歩いている姿を見た時に、イエス様が自然を越えたお方である事を悟れず、信じる事も出来なかった自分の不信仰を、パンの事から「悟るがなく、その心は堅く閉じていた」とマルコに語ったのです。同じ出来事をしるしているマタイの福音書にはこう記されています。

「そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」(マタイ14章33節)

もちろんペテロも同じ思いで信仰告白をしたと思います。しかしペテロはマルコにこの事を何も語らず、むしろ『確かにあなたは神の子です』と言った信仰告白よりも、イエス様を自然をも越えた存在であると悟る事の出来ない自分、信じる事の出来なかった自分の不信仰を思い出して(本当に何も分かっていない自分自身が問題である)と感じたのではないでしょうか? だからこそ『彼らはまだパンのことから悟ることがなく、その心は堅く閉じていた』と正直に自分の心の状態を語ったような気がするのです。マルコはこの出来事を知りませんから、ペテロが“かっこいい自分”を言う事は出来たはずです。

弟子の中で彼ほど目立った人物はいません。またペテロは12弟子を代表する役目も担っていました。しかし彼は自らの歩みを振り返りながら、主の赦しと恵みにより守られて来た事を誰よりも味わい、そして知っていました。ですから今ある自分を感謝しつつ、あの時の事を忘れない為に、まだ悟れず心が閉じていた状態にあった時の自分の姿をありのままに語ったのではないでしょうか。恥じる思いも多少はあったでしょう。私はここにペテロの謙遜な姿を感じます。皆さんも今までの歩みの中で色々な事があったのではないでしょうか?

失敗談を言うのは恥ずかしい事です。何となくそこで言い訳をしたり、多少付け加えたりしてしまいがちです。しかしペテロは悟れない自分の心を素直に語りました。何もかも捨ててイエス様に従って来た筈なのに、心の何処かではこの世での地位や名誉を求めて、誰が一番偉いのかに関心を向けている為に目の前で行われた素晴らし神様の御業を一部始終見ていたとしても、湖の上を歩く事が出来るイエス様を信じることが出来なかった。ペテロはイエス様から「あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」と指摘されているように、“神にも人にも”という二心が、ここで“不信仰”になって現われてしまったのです。またイエス様に従っている動機が人々と変わらなく、(自分の思いを成し遂げたい故)である事も同時に知ったのであります。

ペテロは信仰を持って心の目で見る事が出来なかった為に『確かにあなたは神の子です』と信仰告白していても、何も分からず悟れなかった自分を反省し自分の不信仰を戒めているのです。あなたの中に二心の思いはないでしょうか? またあなたはどの様な動機を持ってイエス様に従って行こうとしているのでしょうか?

神に仕える事と、世に仕える事は油と水の関係で決して交じる事はありません。もし交じり合っているとするならば、あなたがどちらにも自分の都合の良い様に良い顔をしている事になります。しかしどちらにも良い顔をしているならば、必ず両方からはじかれる時が来るのです。

ユダヤ人はメシヤ(救い主)を待ち望んでいました。それはローマの国から自分達を救い出してくれる方を期待をしていたのです。自分達の願いを叶えてくれそうな人物としてイエス様が現われたので、王としようとした。人々は自分達の思いを成し遂げてくれる人物を願っていただけという事が分かります。

同じ事があなたにもないでしょうか? 「神に従います」と告白しながら、そいれでいて今もなおこの世のものに心が奪われたり、或いは振り回されたり、また神様の方を向いて歩んでいるはずなのに、何時の間にか自分の思いの方向に従っている自分。これが私達の実際の姿ではないでしょうか? イエス様はあなたの姿を誰よりも知り尽くしています。本当の謙遜は神様との関わりの中から与えられていくのです。神様との関わり、即ち交わりによって神の聖さ、正しさ、愛に触れ自分の姿を見せられていくことによって謙遜にさせられていくのです。

ペテロは神様との交わりの中で、後になって自分の事を振り返った時に謙遜な心になりました。同時に何も分からず、悟れなかった不信仰を後悔するのではなく、主の赦しと恵みにより守られて来たことを感謝し、自分がどこを向いて歩んでいくのかを再検証する事が出来たのです。後悔ではなく、主の赦しと恵みを見て共に歩んでいけたらと思います。
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