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2001年7月15日 日曜礼拝メッセージ

「どうしても必要なこと」



 新約聖書 ルカ10章38〜42節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

私達の生活の中には思い通りにならない事がよくあります。その時に皆さんはどうしますか? 八つ当たりをしてしまいますか?人のせいにしたりしてしまう事もありますか。今日はマルタ、マリヤ姉妹を通して、私達が陥りやすい過ちを学び、そこからの脱出を教えられたいと思います。

二人の姉妹

「さて、彼らが旅を続けているうちに、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気がお落ち着かず、みもとに来ていった。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(38〜40節)

イエス様がエルサレム近くのベタニヤという町に入って行こうとした時の事です。そこにはイエス様の愛されたラザロ、マルタ、マリヤの兄妹がいました。そこで少し休みたいと思ったのでしょう。マルタはどんな風にお迎えすればイエス様が喜んでくれるかと気を使いおもてなしを考えました。

それでマルタはイエス様の為に一生懸命動き回っていたのですが、妹のマリヤはイエス様の前に座りイエス様の話しを聞いてばかりで、何もしなかったのです。マルタはマリヤの事が目に入って仕方がない。(自分が忙しくしているのに、マリヤはなぜ手伝おうとしないのか)段々と心は荒れてきて、『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』と言い出しました。これは直接的には妹に対しての言葉でありますが、同時にイエス様に対する非難とも言えるかもしれません。「イエス様、あなたもこれを見ていて何も言わないのですか。何とかして下さい」とイエス様にまで八つ当たりが行くわけです。

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3章3節)

これは「神様が始めて下さった事柄を、自分の力、自分の熱心で成し遂げ様とするのですか?」という意味です。私達は神様によって導かれた事柄は、“神様の力によって成し遂げさせて頂く”事が大切なのです。新約聖書によく出てくる言葉に「エン クリストー」という言葉があります。これは英語で言いますと「in」。キリストの「中に」とか、キリストに「あって」と訳せるでしょう。

私達は全ての事を“キリストにあって”する必要があるのです。イエス様をもてなすことも良い動機です。でもそれも「エン クリストー=キリストにあって」行う事が大切なのです。自分の力や自分の計算ではなく、神様によってさせて頂く事が大事なのです。良い動機であったとしても、それを自分の力、自分の熱心、自分の計画として行おうとする時に、ずれ始めるのです。

マルタはどの様にずれていったでしょうか。まず妹が気になった。自分は良い事をやっているという自負心があったと思います。(イエス様の為に、私はこんなにもてなしている。)それに対して、(マリヤは座っているだけで何もしない。何と気の利かない。)色々と裁く心が出て来たのではないかと思います。これは「自分の考えが絶対だ。一番良い」と思い過ぎてしまっているからではないでしょうか。そしてそれを自分の力で成し遂げようとしている。ですからそれを妨げるものは何であれ“敵”になってしまうのです。おまけに妹だけではなく、イエス様をも非難するわけです。


マリヤが自分から手伝いをしたいと言うのであるなら、それは良いのですが、イエス様の話を聞きたいという妹の自由を奪い、自分が良かれと思う事に従わせようとするのは行き過ぎなのです。すなわちこれは(あなたの考えは大した事がない。私の方が正しいのだ)と言っている事になってしうまうわけです。神様も御心ではなく自分の思いが優先した為にイライラがはじまり、妹を更にはイエス様さえも裁いてしまうわけです。ですから、この時にイエス様は『あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。』

でもマリヤにとっては、この時じっとイエス様の話しを聞く事が神の御心なのであり、マリヤはそれを選んでいるのだから、奪いとってはならないと言うのです。マルタは様々なことに心を向けて心配が出てきてしまい、更に自分の考えている事が良い事だと思い、それが“確信”となってしまい、(それをやらないマリヤは間違っている)と裁き始めてしまったわけです。

ここで私達が学ぶべき事は、私達はいつでも自分の考えが一番良いという思いを持ってしまう弱さがあるという事です。マルタはいつのまにか自分の方が正しいという思いが強くなってしまったのです。ではこういう場合には私達はどうしたら良いのでしょうか?

主に信頼する

「神である主、イスラエルの聖なる方は、こうおうせられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかしあなたがたはこれを望まなかった。」(イザヤ30章15節)

もしも私達が突然パニック状態になった時やマルタのような心境になった時に大切な事は、“主の前に立ち返って静かにする”事です。慌てふためいて、動き廻るのではなく、まず主の前に静まる。その時に主が私達に平安を与え、行くべき道を指し示して下さるのです。

この時にイエス様は苦しみのエルサレムに行こうとしておられました。その前に愛するラザロ、マルタ、マリヤと一緒に過ごしたいと思ったのでしょう。もしかしたらイエス様は料理は簡単でよかったかもしれない。それよりもじっくりと交わる事を求めていたのかもしれません。でもマルタはイエス様を思うよりも、まず自分の考えで動き回ってしまった。その結果あまり良くない所、即ちマリヤの所にまで立ち入ってしまった。私達も様々な出来事の中で、『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すればあなたがたは力を得る。』との真理をしっかりと心に留めておきたいと思います。

正直慌てている時には静まりたくありませんし、また静まっても何か落ち着かないおおいものです。でも今出来る限り「神様」と声をかけて静まるようにしたいと思います。その時不思議に、何か新しいアイデアや考え方が与えられていくものです。本当にマルタの様に、自分の思いに固執しすぎないように注意させて頂きたいと思います。

同時に、神様は一人、一人に違う賜物や違う使命を与えておられることも心に留めましょう。イエス様はマルタがお世話をしているのを何も責めてはいません。もしマルタにも話しを聞きなさいと言うのなら、「ここに座りなさい」と言ったはずです。問題だったのは、「マリヤに手伝うように言ってください」といった事です。マルタがもてなしを喜んでするのは良い。でもそれ以外の人の領分にまで越権して言ってはならないという事です。それぞれが“自分の使命を果たす”という姿勢が大切なのです。

私達が神の前にそれぞれの成すべき使命を果たすならば、神様はそれを良しと見て下さるのです。先週の「よきサマリヤ人」の中で、イエス様は強盗に襲われた人に犠牲を払い、愛の業をしたサマリヤ人のように、「あなたも行って同じようにしなさい」と律法の専門家に言いました。それはただ良き事をすれば良いのではなく、主の前に祈りつつ導かれて従っていく事が大事である事をも強調したくて、ルカはこの話しを入れたのではないかと思います。

それぞれが様々な立場におかれています。その一人一人が性格も違います。私達はつい人と比べてしまいがちですが、しかしそれぞれが自分の置かれた立場、持ち場の中でそれぞれが自分にも出来る形において喜んで主に仕えていく者とさせて頂きいたものです。
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