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2001年8月12日 日曜礼拝メッセージ

「神の時」



 新約聖書 マルコ1章1〜15節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 高橋 勝義執事

旧約時代、ヤコブ(イスラエル)の息子ヨセフは神様の不思議な計らいによりエジプトで宰相の地位を与えられ、パロに次ぐ権力者になっていました。当時カナン地方に驚異的な大飢饉が訪れましたが、ヨセフは父ヤコブと兄弟達をエジプトに定住させ、神様の恵みによってユダヤ民族をその地で形成したのです。その後イスラエル民族は奴隷としての苦しい生活を約400年間過ごす事になります。神様は“神の時”に、モーセを遣わしイスラエルの民をエジプトから解放し、脱出させました。神様は約400年の間眠っていた訳ではなく、時が来るまでに様々な備えをしておられたのです。私達は常に自分が望む時に、全てが望む通りになる事を願っています。自分が望む時ではなく、“神の時”こそが全てにおいて最善である事を今朝共に覚えたいのであります。

時が満ちた

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)

イエス様は民衆にこう語り、宣教を開始されました。『時が満ちて』とあるように、イエス様は救いが「この時・この時代」に来たと宣言されたのです。何故「この時・この時代」に『時が満ちた』のでしょうか? まずイスラエルの民の状況から見てみましょう。

「民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、」(ルカ3章15節)

人々は本当に救い主を待ち望んでいたのです。切実に待ち望んでいたからこそ、荒野で叫んでいる声の主、バプテスマのヨハネに注意を払ったのです。多くの人々が彼の話しを聞く為に、わざわざ荒野(砂漠)まで出かけて行きました。彼の話しに共感した人は、自分の罪を告白してバプテスマを受けました。次に歴史の中に働かれる神様の御業から見てみたいと思います。

「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」(マルコ1章2〜5節)

イエスラエル人は神様を信じている民であり、神様によって選ばれた民です。ですから当然神様から教えられた戒めを堅く守っていました。それなのに悔い改めが必要だというのです。確かにイスラエルの民は神様から与えられた教えを守ってはいましたが、いつの間にか神様の教えよりも、先祖の教えの方が優先されるようになってしまったのです。そして形式主義、律法主義に陥ってしまった。その結果神様の教えから外れた歩みをしている事に彼等は全く気が付かないでいたのです。

“悔い改め”とは自分が神様から離れた歩みをしている事を自覚し神様の教えに聞き従う決心をする事です。人々の心が神様に向けられた時に、神様の教えを聞く心備えが出来て来る訳です。その為にもイスラエル人が神様の教えから外れている事を悟らせる必要があったのです。ヨハネのメッセージに応答した人々は神様の声を聞く心の備えした訳であります。次ぎに、神様は共通語備えられました。

世界中に福音を宣べ伝える時に障害となるのが、言葉の問題です。民族が違えば、当然言葉も違います。とするならば、通訳者がいなければ福音を伝える事は出来ません。ところがこの時代はローマ帝国の支配にあり、多くの民族がそれぞれの国を行き来していたので、お互いの意思疎通を円滑にする為の共通語として、ギリシア語のコイネー語が使われていた。パウロが自由に伝道を出来たのは、この共通語があったからです。更に彼はユダヤ人でありながら、ローマの市民権を持ち、ギリシア語を流暢に話せた。ローマ帝国内ではコイネー語を話せれば、どこにでも自由に行って福音を語る事が出来る様になっていた。また当時は、ローマ帝国が文化・商業の中心ですから、ローマへと通じる道が整備されていました。この様に神の備えは歴史の中にもはっきりと現されているのです。


神様はイスラエルの民が救い主の訪れを切実に待ち望んでいる時に、バプテスマのヨハネを遣わし、人々が神様の御声を聞く心の備えをさせ、ローマ帝国をも用いて福音を伝える下地を整えられたのです。全ての備えが整い、神様のご計画の中で最も相応しい“神の時”に救い主が「この時・この時代」に遣わされて来たのです。偶然救い主がこの世に来たのではなく、全てが主のご支配の中にあり、計画の中にあって行われていったのです。

神の時と私達の時

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終りまで見きわめることができない。」(伝道者の書3章11節)

私達は本当に必要な時に様々な困難や問題の解決が得られる事を願っているのではないでしょうか。ですから必要な時にその解決が得られないと、とてもがっかりするのです。例え後になって解決が与えられるとしても喜びは半減してしまう様な気がします。私達は中々“時”を見極められずにいる訳ですが、私達の営みには“神のご計画”がある事を知らなければならないと思います。そして何よりも神様はあなたの為に様々なご計画を用意しているという事です。眠っているのではなく、むしろその“時”に私達が最善になせる様にと神様が色々な用意をされているのです。それには、全てが神の主権の中にある事を私達が認めなければなりません。

隠されていることは、私たちの神の、主のものである。しかし現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

私達は全てを知りたいと思います。そうすれば不安がなくなり、全てが解決出来るからと考えるからです。しかし果たしてそうでしょうか? 全てを知った時に私達はむしろ余計な心配や不安に陥ってしまう様な気がします。また知ったからといって、全てを解決する事が出来るでしょうか? ですから全てを知る事が必ずしも良い事ではありません。むしろ知らないでいる方が幸いな事もあるのです。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』『神が行われるみわざを、初めから終りまで見きわめることができない。』とある様にあなたが自分の望む時にではなく、“神の時”を求めて歩む事が大切であると聖書は語っているのです。そして全てが神の主権の中にある事を認める事が大切なのです。神様の御手に全て委ねる信仰がその時あなたに求められて来る訳であります。

「全てが神の主権の中にある」− 頭では分かるのですが、いざ“神の時”になると、中々委ねられないのが私達であります。イエス様でさえ、十字架を前にした時に『父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください。』と祈りました。イエス様はこの戦いを通って従順を学ばれたと聖書は記しています。ものすごい事です。それなら尚の事私達は“神様の時”を切に求めて歩むべきではないでしょうか?

“神の時”を求めていくと必ず大きな問題にぶつかります。それは「自分が望む時」を十字架につける事になるからです。それにより、私達は全てを最善になしてくださる神様を知る事になりますし、それを通して私達も信仰の従順を学ぶ事になるのです。神様があなたの為に様々な備えを用意しておられる事を決して忘れてはなりません。しかし私達は神様が私達の為に用意して下さった様々な備えを沢山無駄にしている様な気がします。しかし例え無駄になったとしても神様は次ぎにあなたが必要とする備えを用意して下さっています。しっかりと手の中に握りしめている「自分の思い」を捨てる時が今日来ているのではないでしょうか? 神様はあなたにどの様に語っているでしょうか? 神様の約束であるならば、神様の備えを無駄にしない為にも、自分の望む時ではなく、心から“神の時”に従って歩む道を共に目指していきたいと思います。
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