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2001年9月16日 日曜礼拝メッセージ

「立ちかえれ!」



 新約聖書 ガラテヤ5章7〜12 節、ヨエル2 章12〜14節 より
メッセンジャー
 東北学院大学教授 佐々木 哲夫氏

10年前の1991年、年明け早々に湾岸戦争が起きました。日本は国情、石油の事がありますので、クエートをめぐるイラクと多国籍軍との戦いの中で、アラブ寄りの報道をしたと思います。その年の2月17日にあるイスラエルの家族に焦点を当てて、宗教、人、家庭を内容にした番組でした。その中でその家族に女の子が生れ、「シブタミ(帰ってきた市民)」という意味の名前が付けられました。世情不安定になっていましたので、多くのユダヤ人達がイスラエルに来たという当時の状況を反映してこの名前をつけたのでしょう。

旧約時代にも、イザヤの息子の名前は「シュアル・ヤシュブ(残された者は帰ってくる)」です。この「ヤシュブ」という単語はヨエルが語った『立ち返れ』という単語です。

「しかし、今、―主の御告げ。― 心を尽くし、断食と、涙と、嘆きをもって、わたしに立ち返れ。あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。」(ヨエル2章12〜14節)

ヨエルは神様の言葉として直接引用して、『わたしに立ち返れ』と言いまして、次ぎの節ではヨエル自身の言葉として『あなたの神、主に立ち返れ』と語っています。それが「ヤシュブ」という単語です。非常に印象深い単語であります。これは「神様に戻る必要がある人。神様から離れている人がいる」事が逆に分かる訳です。ユダヤ人が持っていた問題はヨエルの時代のものだけではなく、パウロの時代においても神様から離れてしまうような出来事があった様であります。

「あなたがはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。」(ガラテヤ5章7節)

パウロはしばしば信仰生活を徒競争に例えます。ガラテヤの人々の福音に根ざした信仰生活をパウロは高く評価し『よく走った』と表現しています。しかし『よく走った』彼等に問題が起きた。『だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。』一体何の問題が起きたのでしょうか? そしてその問題をパウロはどの様に解決したのか?

「そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。」(ガラテヤ5 章8節)

問題とは“勧め”であった様です。この“勧め”は原文を調べますと、新約聖書ではここにしか使われていない単語で「persuasion」= 説得 と約されています。説得が妨げとなる。抵抗となるのです。即ちイエス・キリストの福音に従って一生懸命に生きる時に、この世の慣わし、慣習に従った説得。一生懸命に走ると世間の慣習と少し摩擦を起こす。「そんな風にしないで、今までのやり方でやった方が良いですよ」と勧めを受ける訳です。一見気の効いた言葉として響いてくるのであります。しかしその様な勧めは人間が動機となっている意見で、受け入れ易いものですが、十字架につまずきを与える場合が多いのです。聞くに滑らかなものが対等してくる。それらが一生懸命に走れば走るほど、妨げとして出てくる問題であります。人間的なもの、ヒューマニスティックなもの、合理的で多数決をもって、温和で強調性のある様な装いを持ってしばしば現われるのです。今日読みましたガラテヤの文脈では、パウロは割礼の事を指しています。


「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。」(11節)

ユダヤ人の伝統である割礼を受け入れてあまりトラブルを犯さないようにとの勧めがなされていたのでしょう。しかしパウロはそれを受け入れていなかった訳です。パウロはこの問題にどの様な対応をしたのか? 再度8節の言葉に注目しましょう。『そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。』神様から出たものではないと彼ははっきりと語っています。神様から出たものか、人間から出たものであるか。「神から出たもの」これを判断基準にするのであります。

この判断基準はパウロ独特の考えではなく、旧約聖書を通しても言われているものです。預言者エレミヤと偽預言者ハナニヤとの対決の中に現われています。エレミヤはバビロニアによりイスラエルが滅びると預言します。一方ハナニヤはそんな事は有り得ないと全く反対の事を語る。人々はどちらの預言者が本物で、偽者かの判断が出来ない。この時にエレミヤはハナニヤに言います。

「主はあなたを遣わされてはいない。その事をお前はよく知っているはずだ。」(エレミヤ28章15節)

エレミヤは自分が神様から遣わされた事を知っていますし、その神様が滅亡の預言をせよと言っているのですから反対の預言を語る者は、神様の預言を語る者ではない事を彼は知っています。神がその言葉を語っているのか、いないのかの判断基準がガラテヤ書にも見られるのです。

たえず判断基準を神の側に置き、心を引き裂き“神に立ちかえれ”。これがパウロが私達に語る視座であります。帰るべき所に帰り基づくべき所に基づく。具体的には私はこれを目に見える世界で当たり前にやっている事です。目に見える世界では、物を計るにしても、時間を計るにしても基準があります。メートル原基やグラム原基。時間にも標準時計があります。基準に従い目に見える物理世界を構築しております。同じ様に目に見えない世界においてもそれが必要であります。それが、物差し=カノンCanon (聖典)であります。

人の言葉ではなく、神が与えた言葉=聖書であります。心を引き裂いて神に立ちかえり、神の言葉に立つ。これが私達に今日求められている事でありましょう。福音に基づいて歩む時に、しかもよく走る時には様々な妨げ(説得)がなされます。しかし私達は神から出発し、神に帰る事を知っています。その事を明確に認識する必要がある。私共の生活、仕事、全ては神にある。それを鮮明に認識したいのであります。その時にむやみな説得に迷わされず、判断する事が出来る。十字架に基づく歩みでありたいと思います。
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