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2001年9月23日 日曜礼拝メッセージ

「よき備え」



 新約聖書 ルカ12章35〜48節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

イエス・キリストの再臨に向けて

文明の最高の技術を集めたツイン・タワーに飛行機がぶつかり、あっという間にそれが崩壊していく。誰が想像出来たでしょう。私が最初にあの場面を見た時は、「世の終り」の時のことを思いました。考えられない事が起きて、遂に地球が滅びる。

「世の終り」というと何か暗い嫌な出来事の様にだけ感じますが、クリスチャンにはこの時は大変喜ばしい時である事を知っていますか? 「世の終り」の前に“携挙”という出来事が起こります。イエス・キリストが再びこの地に来られ、私達の身体を栄光の身体に変えて下さるという大変な出来事が起こります。そして私達はイエス様のいる所に携え上げられると書かれています。

私達はイエス・キリストを信じて魂は救われた訳ですが、この肉体は相変わらず罪の支配を受けている。「私は救われたはずなのに、何故この様な事を繰り返すのであろうか?これでも救われているといえるのであろうか?」悩んだ方も少なくないのではないでしょうか? 実はその所から完全に解放される時が、この“再臨”の時であるのです。

私達の肉体は限界があります。また罪の支配、影響を受け易いのです。私達は御霊によって歩んでいなければ、優しい心で居続けることが出来ず、醜い汚い心になってしまうのです。しかし“再臨”の時には、その様な苦しみや葛藤から完全に解放され、この肉体が完全なものとなるのです。この時こそが本当の希望の時であり、完全な贖いがいよいよ来たと知って頂きたいのです。しかし同時に神様を知らない人にとっては恐怖の時です。では私達はその時の為にどの様に歩むべきなのでしょうか?それが本日の箇所に記されています。

「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありさない。」(35〜36節)

中東では長い衣服を身に着けています。このままで仕事をしていては邪魔になります。ですから帯を締めて仕事に取りかかる準備をするのです。また向こうではランプを使用しています。いつも油を注ぎ、絶えず芯を切っていないと明かりが燃え続ける事が出来ない。これは私達の信仰生活に似ていると思いませんか? 私達がしっかりと腹を据えて、(主に従うのだ)という克己心を新たにしていなければ、消えかけてしまいやすいのです。

私達はいつも信仰の火を赤々と燃やさせて頂く事がどんなに必要でしょうか。そして『主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ちうけている人たちのようでありなさい。』あちらでは婚礼が夕方に始まり、帰りは真夜中になる。時には朝に帰る人もいるそうです。その間僕はじっと主人の帰りを待っている訳です。ずる賢い僕は(しめしめ、今こそ休みの時だ)と休んでしまいますが、忠実な僕は主人がいつ帰って来ても良い様に帯を締め、用意をして待っている。主人が帰って来た時に、それを見られた僕はどうなるのでしょうか。

「帰って来た主人に目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯をしめ、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」(37節)

これは世の終りに主を待ち望む者達が受ける報いを言っています。私達が天の御国で、或いは携挙の時に受けようとしている恵みを象徴しているのです。この事を覚える時に、今こそ(主にしっかりとお仕えしていこう)という思いが出るのではないでしょうか。

あなたのはこの備えが出来ているでしょうか? もしかすると「ちょっと待って。今はまだ早すぎる」というおもいがないでしょうか。もしそういう心であるならば、「主よ、今来て下さい。待っています」と言える信仰に変えて頂く必要があります。私達はいつでもイエス様が来られるのを迎える備えをする事がどんなに必要かという事です。その為には毎日を悔いなく“イエス様が今来られる”備えのある生き方をする事が大切です。私達はその時にイエス様から思ってもみなかったご褒美を頂く事でしょう。イエス様は“いつ来る”かははっきりとは語られませんでした。いつ来てもよいように用意をしなさいと語られました。“今”主をお迎え出来る生き方をしていきましょう。

「主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。」(42〜43節)

クリスチャンはすべかからくイエス様がいつ来られても良い様に備えをするべきでありますが、それと共に“主の仕え人”=主の使命を果たす者として置かれている事も忘れてはならないと思います。ここでは「しもべ」と書かれてありますが、これは奴隷のことです。しかし彼らは信頼されますと、主人の全財産任される事さえあるのです。旧約聖書ヤコブの息子ヨセフの事を覚えていますか? 奴隷として売られたにも関わらず、ポティファルの家で全ての財産を扱うようになったのです。私達も神様の前に忠実に歩んで行く時に神様は様々な祝福、恵みを与えて下さいます。でもそれを得た時に私達はそれを注意深く生かし用いる事が大切である事を覚えていて下さい。

「ところが、もしそのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰ってきます。そして、彼を厳しいく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。」(45〜46節)

神様の恵みをただ受けただけではなく、それを用いる為に、仕える為に与えられている事を忘れないで頂きたいのです。その与えられたものをどの様に生かすかは一人一人違います。この僕には非常に立派な歩み方、信頼出来る歩み方をしたので、主人の財産を全部扱う様になった。しかしその後、彼は忠実さを忘れ傲慢になった。そして下男や下女を打ち叩き、酒に酔い始めた。私達も神様から大きな祝福を与えられた時には危険です。

多くの祝福を受けてその事で傲慢になってはいけません。神様があなたに祝福を与えて下されば下さる程、逆に謙遜に歩まなければなりません。そしてそれを神様のご用の為にお捧げし用いさせて頂く。これが大切ではないかと思います。彼は段々と恵みに慣れ、本来は受けるはずのない権力や力を間違って自己中心的に用い始めた。そして本来の彼であったらしないはずであろう事もし始めてしまったのです。

私達も直ぐに傲慢になると思いませんか? そしてそれが罪の元となる。本来ならばしないであろう事までもしてしまう危険な状態にすぐに陥る事を覚えておきたいのです。恵みに慣れてしまい私達は神の憐れみを否定したり、馬鹿にしたりさえもする危険性があるという事です。私達が受けた祝福、恵みは他の人に分かち与えるべきものです。『食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人』とあります様に、主の前に忠実に歩んで行くならば、私達はその様に歩む事が出来ますが、それらの事を(適当に)と思い始めると、忽ちとんでもないことをし始めるのです。注意していきたいと思います。

世界中で今どれだけの人が福音を聞いているでしょうか? 聖書の約束によれば、全世界に福音が宣べ伝えられてそして世の終りが来ますと記されています。条件が1つあるんですね。自分が救われている事に甘んじでしまい、これから滅びようとしている人が数多くいるのに知らん顔でいる。私達は与えられている祝福を随分と無にしている。神様に「あなたは忠実に成すべきことをしましたか」と聞かれたら「はい」と言いきれない面もあるのではないでしょうか?

もし私達が真剣に一人の方の為に祈り始めたなら変わると思います。神様の前に本当に目を覚ました、忠実な僕として共に歩んで行きたいと思います。そうなる為に、まず聖書を読む事。御言葉をしっかり読んでいく事。これが力になります。そして祈りも力になります。皆さん2、3分呼吸を止めてみて下さい。苦しいですね。もし祈ならないならば、霊的にはその様なダメージを受けていると思って下さい。聖書も読まない祈りもしないでどうして元気で喜び溢れるクリスチャンでいられるでしょうか?

聖書を読み、祈る。綺麗ごとだけを祈る必要はありません。悲しかった事、苦しかった事、愚痴であったとしても神様のところに来てくれれば神様は喜んでくれます。もっと私達は神様に近づいて正直な祈りを捧げたいと思うのです。何度も何度も聞いている単純な事ですが、その単純な事を毎日毎日続けていきましょう。毎朝神様の前に出て聖書を読み、祈り力を頂いて歩む。そうする内に私達は本当にこの様な備えが出来るクリスチャンになっていくのです。預言が刻一刻近づいています。その時に私達は「もう来たの?」と言わないですむ様に主の前にしっかりと備えさせて頂く者にならせて頂きましょう。
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