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2001年9月30日 日曜礼拝メッセージ

「本当に恐れるべき事」



 新約聖書 ルカ12章49〜59節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

聖書を読んでいきますと、大変受け止めやすい御言葉とそうでない御言葉があります。例えば、

「全て疲れた人。重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)

とか

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。」(イザヤ41章10節)

等数多くあります。“聖書”はどちらかというと私達を励ましたり、慰めたり力づけてくれると思って読んでいますと時々(これは何だ?)と思う御言葉が出てくる場合もあります。今日の箇所はそういう箇所であると言う事が出来るかもしれません。

表面だけの信仰か“本当の信仰”か

「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」(49節)

“火”というのは、「裁き」や「試練」という例えによく使われています。

「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」(51〜53節)

私達はイエス様が平和の為に来たと思っています。ですから一見すると理解に苦しむ箇所かと思います。ここで私達に教えているのは、“信仰”はある時点において違いが出てくる事がある。本当の信仰にはその様な戦いが必ず出てくるという事なのです。ただ表面だけを繕うようにして、隠す様にして平和を保つのではない。本当の意味での平和をもたらす為に、私達は真実な生き方をするべきですと勧めているのです。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7章21〜23節)

私は引っ込み思案で劣等感が強かったので人の前ではっきりと自分の信仰を告白する事が苦手でした。するとここで『『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく』とあり、(これでは私は駄目かな)と考えた事がありました。『主よ、主よ』と言っていますから、少なくとも周りから見れば“クリスチャン”と言われている人達です。そればかりではなく、ある人はイエス様の名前において、悪霊を追い出したり、奇蹟を行ったとも記されています。

ところがその人に対してイエス様は、『私はあなたを全然知らない。』と言われるのです。要するに表面的なものではなく、又目に見える形としての信仰ではなくて、本当に救われる“確かな信仰”に生きなければならないという事です。人前でだけ取り繕う信仰ではなく、しっかりと私達が天国に行けるような信仰を持たなければならない。この事を勧めてくれているのです。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(IIテモテ3章12節)

私達は聖書を読む時も大体都合の悪い所は外して、都合の良い所だけを読んでしまう傾向があるのです。もし私達が永遠の命を頂く事が出来る“確かな信仰”に歩む為には、やはりきちんと踏まえなければならない。

以前私がご奉仕させて頂いていた教会に、夏休みを利用して英会話の奉仕をしに来たアメリカ人学生がいました。その方が「この教会ではちゃんと罪について話すのですね」と言っていました。最近アメリカでは罪と悔い改めについてはあまり言わなくなったとのだというのです。聞くに心地よい言葉だけを話し、“本当の救い”その為の罪と悔い改めが非常に弱くなってしまっているというのです。


私達は人の目に喜ばれる為にではなく、真実に神が言っている事に立っていく信仰が必要であります。そしてそれは時には人から「何だお前は」と言われる事があるかもしれません。でも間違えないで下さい。謙遜に全ての人と平和を保つ事はとても大切なのです。この世の人達がやるレベル以上にもっと徹底してそこを貫いていく必要があるのですが、どうしても理解して頂けない部分が出て来る事は仕方がないと言うという意味なのです。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられるのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ6章14〜16節)

私達の信仰のどうしても揺るがしてはならないポイントが“十字架”です。この十字架により私達の罪は赦された。ですからこの十字架を無視しては絶対に、救いはないという事です。人が「何が十字架だ」と馬鹿にされ、無視されようともこの十字架こそが私を救った事にはっきりと立ち、この信仰に生きていかなければならない。「十字架こそが私を救い出した。」この信仰が大切です。

その日に備える

「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。」(56〜57節)

これは「世の終りにのぞんでいるのだから、あなた方はその為に正しい備えをしなさい」と言っているのです。ユダヤ人は雲や風の動きで天候をよく見分ける事が出来た。しかし様々な神様の奇蹟、預言が成就しているのにも関わらず何故時代を見分ける事が出来ないのか。実はイエス・キリストが生まれる、イエス・キリストが十字架に掛けられる。これは聖書的に言いますとまさしく“終末”です。もう世の終りが近づいている事を教えてくれているのです。

先週も言いましたが、イエス様はもうすぐそばまで来ています。イエス様は今にでも来ようとしているのに、時代のしるしを見ようとしない。イエス様が来られて裁かれる時が直ぐ近くに来ているのに、その備えをしないのはどういう事ですか? イエス・キリストは十字架に掛かりその罪の赦しを成し遂げてくれた。もし私達が自分の力で自身の罪の清算をしなければならないとしたら、誰もイエス様が来る時にまで間に合う人はいません。しかしイエス・キリストは弁護士となり、罪の身代わりとして私達を赦して下さった。私達ははっきりと自分の罪を認めて、この為にイエス様が死んでくれた事を「感謝します」と心から受け入れ永遠の御国へ行く備えをするべきではないですかと語って下さっているのです。

あなたにとって“十字架”はその様な存在になっているでしょうか? 初めに言いました“火”を「裁き」ととる事も出来ますが、「信仰の象徴」ととる事も出来るかもしれません。もし私達の信仰が赤々と燃えているならば、イエス様は喜んでくださいます。イエス様の十字架がこの私を救い慰め励まし、また立たせていただける。この確信に立っていく時に喜んで歩む事が出来る訳です。

チンツエンドルフという人は放蕩生活をしていました。ある日美術館で1枚の絵の前で足を止め、警備員に「閉館です」と肩を叩かれるまでその絵を見入っていた。それはイエス様の十字架の絵でした。『我 汝が為にかく成せり。汝 我が為に何を成さんや』と記されていた。「私はあなたの為に十字架に掛かりました。あなたは私の為に何をしてくれますか?」彼はその日から本当に変わりました。世界宣教に広がっていくおおもとになり、神様に熱心に仕える働きをしました。

私達にとっても同じです。私達の信仰の中心には十字架が必要なのです。あなたは「自分の罪が十字架により赦された」との確信に立っていますか。又神様がこの十字架で、命を捨てる程に自分を愛されたと言う事を本当に受け取っていますか? 私達はこの朝この事をもう一度しっかりと受け取り、この恵みにしっかりと生きていきたいと思います。
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