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2001年10月7日 日曜礼拝メッセージ

「悔い改めないなら」



 新約聖書 ルカ13章1〜9節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

良い実を結ぶ木

「イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園に、いちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の周りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」(6〜9節)

難しい箇所が続きますが、今日は「無花果の例え話」からのお話です。皆さんは植物の実がなるのを待った経験はありますか? 私も春先にトマトの苗木を買ってきました。同じトマトですが値段が結構高い物もあれば、非常に安い物もありました。私は値段の高い苗木と安い苗木を両方植えました。どちらかというと安い苗木の方がすくすくと育ち、早速実をつけ始めたのです。暫く見ていましたら、その実が全部落ちてしまったのです。(残念)と思いっていると、又実をつけました。でも、また全部実が落ちてしまったのです。

次々と実をつけるのですが皆途中で落ちてしまうのです。成長をしていきますと、場所と栄養だけとってしまいますので、これは抜いた方が良いのではないかと真剣に考えました。でも「忘れた」という事もあり、しばらくそのまま放っておきました。一方値段の高い方の苗木は成長はゆっくりでしたが、しっかりと大きな実をつけて、食べてみると甘い。(やはり高い方が良いのだ)と思いそれだけにしようと思ったのですが、安い方を抜くのを忘れていた事が幸いして、安い苗木のトマトも少しづつ実をつけ始めました。食べてみたら甘くなりまして、今でもたまに食卓に出ています。これは丁度今日の「無花果の例え話し」と良く似た話だなと思います。

“無花果”と言うのはイスラエルの国を象徴しています。古くから「良いいちじく」「悪いいちじく」と言いまして良い無花果は良い実を結ぶイスラエルの民、また悪いのはその反対を現していました。葡萄園に「無花果」はおかしいなと思うかもしれませんが、土地が広くはないので、少しでも育ちそうな場所があると植えるのは、別に不思議な事ではないのです。普通無花果は植えてから三年程しますと実を結ぶ様になるらしいのですが、これは実がなる様になる時間が来てなお三年が経っています。待っても待っても無花果は実を結ばない。それはまさしくイスラエルの民を象徴しているのです。

彼等は神様の御言葉をしっかりと受け取り、多くの実を結ぶ民となるはずであったのに、そうならなかった。実際イエス様が来ているのに、イエス様を受け入れず、拒否し最終的には十字架につける愚かな行為に出てしまった。彼等は実を結ばない“無花果”となってしまったのです。この“無花果”は「イスラエル人の事」とだけ見てしまいますが、実は私達クリスチャンのことを別名“霊的イスラエル”ともいうのです。神様がイスラエルに期待したように、今は“霊的イスラエル”である私達に期待している事があるのです。すなわち私達が実を結ぶ良い“無花果”になる事です。これが今日神様からチャレンジされていることなのです。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5章22〜23節)

皆さんはご自分の中にこれらの“御霊の実”が実っていると思いますか。? 「愛」の実は育っていますか? 「喜び」の実はどうですか? そして平安、寛容(人を赦す心)、親切、善意、誠実、柔和、自制。これらが神様が私達に期待しておられる聖霊による“実”なのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15章16節)

神様はあなた方が実を結び、その実を残す為にあなた方を選ばれたと語っています。また祈りの実も結ぶ事が約束されています。私達正直な、又真実な目で自分を見るならば、自分の中にそのような実が結ばれていない事にすぐ気が付くのではないでしょうか? ではどうしたらよいでしょうか?

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15章4節)

イエス・キリストにしっかりと結びついているなら、すなわち御言葉にしっかり結びついているならば、自然に実を結んでいく事が出来ると言っているのです。しかし、

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 とありますように

多くの葡萄の実がなるには、余計な木を剪定しなければなりません。同じ様に私達も“御霊の実”を結ぶ者と慣らせていただくためには、余計な枝を切り落として頂かなければなりません。問題はその時に「嫌だ」と逃げるのではなく、その神様の訓練と受け取り、主に留まり続ける事。これが実を結ぶ秘訣なのです。


「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1章2節)

「試練」を喜ぶ。どうしてでしょうか。?それはあなたがたの信仰が試される時に、忍耐が生じる事を知っているからです。何か大きな問題や困難に出会いますと神様に「どうぞ助けて下さい。導いて下さい」と祈ります。ここに段々と忍耐が培われていくのです。(まだ答えがない。まだ応えられない。)それは神様があなたに本当に「期待している」のです。神様はあながた方が、どこまで耐えられるかをご存知です。『耐えられないような試練にはあわせない』のですから、その試練が自分では(耐えられない)と思っていても、神様はあなたが耐えられる事を知っていらっしゃる。ですからそこに留まっていると、忍耐が成長していく。そして御言葉は

「その忍耐を完全に働かせない。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1章4節)

自分が変えられたいと思っていますか? だとすればその困難や試練に留まり、主の剪定を受ける事です。神様は無理矢理に厳しい事を与えるのではなく、私達が「はい、それで結構です」と答える時に、私達を本当に訓練し、柔和な者に、完全な者に変えて下さるのです。ですから困難の時に、「主よ、今あなたはここで私に何を教えていますか? 私は何を学ぶべきですか?」と人を責めたり、環境のせいにする代わりに、耐えられるように自分を変えて下さい。主の御訓練の中に留まっていく時に、私達は“御霊の実”を次々と生み出させて頂くことが出来るのです。しかしそれを妨げるものがあります。それが先程読みました13章前半部分です。

実が結ぶのを妨げるもの

「ちょうどそのとき、ある人たちがやってきて、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人たちよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。「あなたがたも悔い改めないんなら、みな同じように滅びます。」(1〜3節)

総督ピラトの時代にガリラヤ人達がいけにえをささげようとした。特にこの時はお祭りであったようです。そこに来て大騒ぎをしたのがピラトの機嫌を損ね、虐殺された事件を指しています。「神殿の祭壇の角に触れる者は簡単に人を殺してはならない」という掟があるのですが、そこでもなお殺されたという事は、彼等は(余程悪い人達であったのだ)と人々は思ったのです。ところがイエス様はそうではなく、『あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。』と語るのです。彼等が特別に悪いのではないし、あなたがたが特別に良いのでもなく皆同じであると言っているのです。

これを報告した人々の心は、(彼等は私達とは違って悪い者達である。)と言う思いがあったのです。そこには傲慢、裁く心、見下す心、差別する心があります。こういった思いが彼等を真実な悔い改めに導かなかったのです。これこそ私達も気を付けなければならない事なのです。「悔い改めないなら」では(何を悔い改めようか?)この様な霊的状態の事が結構あります。これは霊的な目が曇っている状況です。自分の中の悔い改めなければ成らない事柄が見えてこないのです。私達はもっと自分自身に目を向け悔い改めをさせて頂く事が大切なのです。

私達クリスチャンが持つべき基準はこの“御霊の実”です。これが結ばれているのが標準であります。もし“御霊の実”が結ばれていないなら、そこは自分が悔い改めなければならない所である事を覚えたいものです。私達は神様の基準でいけば悔い改めなければならない所だらけなのに、自分の低い基準を基準としているため、自分の罪が見えず、他人の事ばかりが気になるのではないでしょうか? 必要なのは主の前に悔い改める事です。

私がいつも思う素晴らしい祈りは、ルカ18章に出てくるあの取税人の祈りです。顔を天に向けようともせぜ、自分の胸を打ち叩き「こんな罪人の私を憐れんで下さい」と祈る姿をイエス様は義と認めて下さったのです。自分の罪を認めるへりくだった心を神様は高く評価し受け入れて下さるのです。誤魔化すのでもなく、言い訳をするのでもなく、それらを正直に認めて主の前に祈る。神様はその時に私達の内に“御霊の実”を結ばせて下さるのです。肉の上に御霊の実をならせる事は出来ません。私達は(自分はだめだ)と認めた所に“肉の死”があり、そこに“御霊の実”を結ばせる事が出来るのです。御霊の実を結んでいないと気が付かされたら、「主よ、お赦し下さい」と告白する者、又「御霊に満たして下さい。」と祈る者にになっていきたいと思います。

クリスチャン生活は悔い改めの生活という事が出来るかもしれません。ある人は「信じた時に悔い改めればそれだけでで良い」と言うかもしれませんが、そうではなく日々に悔い改めをしていく事が大切なのです。そうする時に初めて本当に実を結ぶ者になっていくのです。私達も御霊の実を結んでいるか絶えず、自らに問いながら、出来ない自分を「主よ憐れんで下さい」と祈りつつ“御霊の実”を結ぶ者に変えられていきたいと思います。
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