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2001年10月14日 日曜礼拝メッセージ

「律法と神の国」



 新約聖書 ルカ13章10〜21節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

皆さんは「どうして、この問題はなかなか解決がつかないのだろう。?何故この事はずっと続くのであろう?」と悩むことがあるのではないかと思います。なかなか解決がつかないと、(もう駄目なのではないか?いくら神様と言っても…)そんな思いになることもあるのではないかと思います。、今日ここに出てくる女性は何と18年間病に取りつかれ、苦しんでいたのです。

私達を憐れまれる主

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。」(10〜13節)

「18年」と言えば大変な年数です。彼女の病気は、腰が曲がり全然伸ばす事が出来なかったのです。恐らく若い時から腰が曲がったままだったと思われます。(何故私だけがこんな辛い目にあっているのであろう)言葉に言い表せない悲しみ苦しみがあったのではないかと思います。イエス様は会堂でこの女性を見て可哀想に思い、心を強く動かされたのだと思います。イエス様が「こちらにくるよう」にその人を指名して連れて来させ病気を癒したのです。人は長い間治らないとは諦めてしまう事が多く、彼女も「どうぞ癒して下さい」と求める事すらも出来ない状態であったのではないかと思うのです。

素直に求める心もなくなってしまっていたかもしれないその女にイエス様は「私の所に来なさい」と呼び寄せたのです。これは私達の心にも語り掛けている言葉ではないでしょうか。心の願いさえもイエス様は読み取って下さるのです。しかしその時に、女は素直にこの言葉を聞けたでしょうか? イエス様に手を置かれて癒された時に期待もしなかったのに、癒しが起きたのです。彼女はなんと感謝してよいか分からなかったでしょう。ところがその時、

「それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群集に言った。「働いてよい日は6日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」(14節)

喜びと感動の中にある者を見ても、ある人は何と冷たくいられる事でしょう。イエス様がした事は間違いであるとでもいわんばかりの言い方です。確かに「安息日に仕事をしてはならない」これは確かに神様が人間が幸せになるために与えて下さった戒めです。私達は忙しく心がキリキリ舞いして、自分をゆっくり考える時間がないと人間らしい生き方が出来なくなってしまう。だから6日は働いて一日は休み神を崇め礼拝する日としなさい。それでこそ人間は人間らしい生き方が出来る。そうでなければ心が亡びる状況になってしまうのです。神様がそういう意味で下さった律法だったのですが、彼等は規則を守る事が第一になってしまい、今現実に起きたすばらしい神の業に目が行くのではなく、「安息日に仕事をした」それだけを見ているのです。18年間も苦しんできた病気が癒されたのを非難し裁くのです。

これは優しくない人の事とお考えでしょうか。実は私達にも、その様な心、人の喜びに水を差したくなるような心があるのではないでしょうか。さてこの時にイエス様は

「しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れていくではありませんか。」この女はアブラハムの娘なのです。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」と答えます。」(15〜16節)

彼等にはこと細かな規則がありました。家畜も喉が渇いて可哀想だから、縄を解いて水を飲ませるのは仕事ではないと決めていたのです。「安息日に仕事をしてはならない」と言っているが、動物達には可哀想だから水を飲ませているのです。ところが人間には安息日だからといって、苦しみを癒す事もいけないという。これはあなたがたは理屈を言っているだけであると話された訳です。

「こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群集はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。そこでイエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、成長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。またこうも言われた、「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパンに種を取って、3サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」(17〜20節)

彼等には弁解が出来ませんでした。この時にイエス様は二つの神の国に関する事を話し始めます。からし種は本当に小さな種です。でも育つと2m、3m、時には4m大にまで成長する。これは小さな物がすごく大きくなる。通常パン種は悪い意味で使われる事が多いのですが、ここでは良い意味で使われています。パン種をいれると柔らかくふくれて質も変わる。これらに何の関係があるかと言いますと、イエス様は今この場で起きている事は神の国がここにやって来ているのを指し示しているのであり、大きな力があると語っているのです。

「『そら、ここにある。』とか『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17章21節)

私達もこの神の国を正しく受け取る為にどうするべきかのヒントがここにあるのです。

主に大胆に求める

18年間も病を患っていたこの女性はイエス様の元に来ようとはしませんでした。でも神を崇める為に会堂には来ていたのづ。神様に期待を持てなかったのだと思います。私達も同じような心があるのではないでしょうか。? 最初は一生懸命に祈っているのですが、なかなかそれが応えられないと、その内に諦めてしまう。それで(いくら神様でもこれは…)と思っていませんか? 実はこの不信仰が私達を神の国から遠ざけているのです。

神にとって不可能は無りません。イエス様はどのようなものであったとしても、その苦しみ、困難を私のところに持って来なさいと語って下さっているのです。この女を呼び寄せた様に私達をも呼び寄せて下さっているのです。「イエス様、この問題を解決出来ずに諦めて来ました。でもあなたには出来るのです」と言ってもう一度求め始めて欲しいと思います。

ルカ伝にはあなた方が失望してはならないのを教える為にと、悪い裁判官の例え話しが出てきます。悪い裁判官であっても、何度も何度も求めたなら「面倒だから」と言って答えてくれる。ましてあなた方を愛し、あなた方を夜昼待ち望んでいる神様が、求めるあなた方に対して応えて下さらないはずがあろうか? 

私達はもっとこの神様に期待するべきではないでしょうか? 「神様はには出来ますよ」とお話しても、「いや私の場合は駄目なんです。」これは一見謙遜そうに見えますが、これは謙遜振っている傲慢です。私達に出来ない事は神様は百も承知です。神様は「あなたの力でやりなさい」とは言わず、「神様が備えて下さる力によってしなさい」と言われるのです。

「まことに、まことにあなた方に告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14章12節)

皆さん、これは「あなた」の事を言っているのです。この言葉を真剣に受け止めるべきです。信じるあなたはイエス様の行う業を行う。それほどの力と恵みをあなたの内に宿すと神様は言っているのです。

「また、あなたがたの心の目がはっきりと見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章18〜19節)

私達の内に神様は働く事が出来るのですが、謙遜傲慢で「私には無理。私には出来ない」と退けてしまう結果として、神様の力をもらう事が出来ないのです。肉にあっては出来ません。でも神様が与える力によってあなたは変わる事が出来ると言って下さっているのです。私達はここに期待するべきです。キーポイントは“信じる”事です。神の言葉を自分へのメッセージとして受け取る。主が私達に語られたと言葉を真正面から受け取るなら、応えて下さるまで私達は期待して祈るでしょう。その様な歩みに踏み出していただけたらと思います。イエス様は手を触れ励ましてこの業に立ちあがらせて下さるのです。私達もその様な信仰の歩みに踏み出していきたいと思います。

ところが神様の恵みを妨げるもう一つ姿を見ます。会堂管理者の姿です。でも私達にも同じ姿がないかを見る事が大切です。肝心の事を忘れ、どうでもよい様な事を議論してしまう。そういう弱さが私達にもあるのです。私達は「愛する」という事を忘れ、非難し議論しあうのです。そんな時に自分がずれないようにする基準は、(これは愛であろうか?)と自問自答してみる事です。すると愛による言動よりも愛からでははない言動の方が遥かに多い事に気がつくでしょう。ですからいつも「主よ、憐れんで下さい。本当に愛から出る行いの人に変えて下さい」と祈り続けることが必要なのです。

(私には出来ない)と思ってしまう。でも神様に不可能はない。「私達を変えて下さい。神様には変えることが出来ます。」と共に祈っていこうではありませんか。あなたの中でも信仰がすくすくと育っていくのなら、見事にあなたを造り替えて行く大きな力となって、不可能を打ち破っていく大きな力となっていくのです。この恵み知っているでしょうか?与っているでしょうか? 内側をも変えて下さる神様に日々出会っていくかどうかはに大きな違いとなります。神の国はもう来ているのです。私達は日々にその力に触れ、変えられていく事が出来るのです。問題は、真剣にこれを求めていくか否か?です。 神様にもう一度「主よ、私を変えて下さい。私を引き上げて下さい」期待し、信じていくものにならせて頂きたいと思います。そして神様の国が本当に大きく開かれ神様の御業がなされた事をお互いに証するものとなっていきたいものです。
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