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2001年10月21日 日曜礼拝メッセージ

「狭い門から入りなさい」



 新約聖書 ルカ13章22〜30節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

皆さんはキリスト教会が何故こんなにも進まないのかと考えた事がありますか? 日本での宣教が始まって100年を越えましたが、現在でも人口1%にも満たないクリスチャン人口です。(キリスト教に何かの欠陥があるのではないのだろうか)そんな事を感じる方もいるかもしれません。「日本のクリスチャンが人口の51%になったら私も信じます」と言った方がおりました。(皆がそうするならば私もそうなってもいい)という気持ちでしょう。同じ様な質問をした人が今日出てくる箇所にもおりました。

狭い門から入りなさい

「イエスは、町々を村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。」(22〜23節)

最初は「イエス様、イエス様」と人だかりであふれるほどに人々が集まって来たのですが、段々とその言葉を聞いているうちに人々が(ついていけない)と思った人が出て来たようです。その様な状況を見る時に、「救われる人は少ないのですか」と色々な意味を持って聞いたのだと思います。その時のイエス様の答えは、

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」(24節)

(“救い”は神様の恵みではなかったのか)と思う方がいると思います。しかしイエス様はある意図を持ってこの事を語ったと思います。この人の言葉が少し気になったのではないかと思います。『主よ、救われる者は少ないのですか。』とは、ある意味で客観的な軽い言葉ではないでしょうか? 彼の言葉の中には「自分はどうなのか?」という問い掛けがない。「その事があなたにとってはどうなのか?」イエス様はそれを言いたかったのではないかと思います。だからこの質問に正面からは答えないで、「あなたは努力し、真剣にその道を突き進む事が必要です。そんなに軽く考えてはならない」と言いたかったのではないかと思います。

「家の主人が、立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり、飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』だが主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』」(25〜27節)

非常に厳しい言葉に聞こえます。でもイエス様はご自分の命が絶たれようしています。中途半端な事は言っていられない。彼等が万が一にもこの救いにもれる事がない様に切実な、真剣な問い掛けではないかと思います。イエス様はまず「あなたがたに残されている救いの為の時は限られている事」を明確にしました。私達は(いつかそういう風にすればよい)と考えるのです。私達は良心の呵責をあまり感じないで良い事を先延ばしする事があります。それは「明日やろう」と決めるのです。毎日「明日やろう」と決める。結果として、いつまでもやらないことになってしますのです。「明日」は永遠にやってくるからです。ですから「門が閉ざされてしまってからでは遅い」とイエス様は語られているのです。

『戸をいくらたたいても、もうご主人は、『あなたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。』

この主人の行動に冷たさを感じるかもしれません。もし私達が真実に神の前に出て神との交わりを持たなければ、私達は神様との関係はなかったと言っても過言ではないでしょう。すると、

『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。だが主人はこういうでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

「確かに私はあなたとそこで食事をしたかもしれない、話しをしたかもしれないけれども、そこでのあなたと私の関係は、ただ「会った」だけの関係でしかなく、私との本当の関係をあなたは持たなかったではないか。だから私はあなたを知らないというのです。

「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったときに、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。」(28節)

神様を信じる者達が天の御国に入れられる。そういう人達が天の御国に入れられているのに、本来“神の民”と思われていたユダヤ人達は外に投げ出され、泣き叫び歯ぎしりしているのです。だから「そうなってしまわないように」とイエス様の真剣で切実な警告なのです。ですからこれは神様の強い愛の迫りの言葉であることを覚えて頂きたいのです。あなた方がその道に歩まなければ本当に亡びの道にいたってしまう。その様な事が絶対にないように。それがイエス様の言葉です。あなたにはその時の備えが本当に出来ているでしょうか? 今日私達はここから学ばせて頂きましょう。


その時のための備え

第1に“自らの救い”に対してもう一歩真剣に考える者とされていきたいと思います。「私はもう救われたのだから何をやっても良いのだ」と軽く考えるべきではない事。或いは「私はクリスチャンいなって20年、30年だから大丈夫」と間違った所で安心感を持たないようにしたいと思います。

「ですから立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Iコリント10章12節)

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Iコリント8章2節)

私達はもっと謙遜であるべきですし、もっと真剣にこの道を求めて歩み続けるべきです。クリスチャンは永久に求道者である事を忘れてはならないと思います。もちろん神様の恵みによって救われている事は感謝するべきですしその確信を持つ事はよいでしょう。しかしそれが(もう私は大丈夫だ)という誤った安心感や傲慢になっていないかを注意する必要があります。私達はいつも真剣に神様の道を求めていく必要があるのではないかと思うのです。

「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(IIペテロ1章5〜7節)

私達が間違った安心や傲慢な思いではなく、『信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。』これをどこまでもどこまでも追い続けていく生涯がクリスチャンの歩みです。もし私達がこれを真剣に求めていくならば、神様の恵みにいよいよ成長していく事が出来るのです。救いはただ一方的な恵みですが、救われた故に神様を求め、神様の恵みに生きる事が出来る為にこの神様の恵みを追い求めていく事が出来るのがクリスチャンである事を覚えていきたいと思うのです。

さて第2番目には、神様の機会を無駄にしてはならないということです。 彼等は大通りでイエス様に会い、話し食事を共にする事が出来た。でもそれ以上の深まりがなかった。本当の意味でのイエス様との深い関係に到るものになっていなかった。

「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3章7〜8節)

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終りまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(ヘブル3章12〜14節)

イスラエルの民は神様の声を聞きながら、恵みを見ながら、神様に信頼することなく不平を言い呟き続けたのです。私達も神の言葉を聞いて二つの態度を取る事が出来る。一つはその御言葉を受け取り信仰の道に歩む。もう一つの道はそれを無視し、あるいは拒む道。両方とも私達に出来る事です。私達は“明日”または“いつか”と先延ばしにしていくのではなく、“今日”という日にそれを行って行く。永遠に「明日、明日、明日」と神の祝福を延ばすのか?それとも“今日”という日に最善の道を選びとっていくのか? これは私達の人生の大きな曲がり角であると思います。

今日最善を選ぶなら、明日もまた最善を選ぶ事が出来ます。もしも毎日を自分が“最善”と思える道を選んで生きていけるのならば、よしんば後で(そうではなかったかもしれない)と思えても悔いはないでしょう。永遠に“明日”へと延ばすのではなく、今日出来る最善の事を選び取っていく人生に踏み出す道。機会を延ばし無駄にするのではなく、その機会を恵みの時、祝福の時、慈しみの時として受け取らせて頂く決意をする事が大切ではないかと思うのです。そしてそれには何が必要であるか? それは悔い改めと信仰です。私達は「明日」に延ばすのではなく、“今日”御声を聞いたその日に主に信頼し従う道に進んでいきたいと思います。
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