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2001年11月25日 日曜礼拝メッセージ

「思い違い」



 新約聖書 ルカ14章1〜24節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

主が望むことを

23日の金曜日(注:2001年11月23日)に三谷康人先生ご夫妻をお招きして素晴らしい集会を持つ事が出来ました。主を信ずる者がどんなに大きな恵みを受ける事が出来るかを教えられたような気がします。しかしながら本日の箇所からは、反対に私達が注意をしなければならない事。万が一にもあなた方が御国に入る事が出来ない事が無い様にイエス様が注意してくれた事が記されています。

「あなたがたのうちに一人でも万が一にもこれに入れないようなことのないように私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(ヘブル4章1節)

「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。」(1〜4節)

安息日に礼拝が終わった後にイエス様は恐らくパリサイ派指導者の家に招かれたのだと思われます。その場には水腫を患っている人がいました。これは、たまたまであったのか、もしくは画策したのか? 私は画策されたのだと思っています。というのは『じっとイエスを見つめていた。』これは原文では「悪意を持ってじっと見つめていた」(どんな事をするか見極めてやろう)という意味合いの言葉が使われているからです。

イエス様は安息日にあちこちで病気を直されています。神様の下さった律法に『安息日を守って、これを聖なる日とせよ。』があります。これは何の為かと言いますと、私達人間の為に下さったのです。私達は6日働き1日は休みなさい。それにより私達は初めて人間らしい生き方が出来るのです。ですからその日に神を礼拝し、より豊かな人生になる事が出来る訳です。

“十戒”もそうですが、神様の戒めはどれも人間の幸せの為に下さったのです。ところがパリサイ人達はそれを裁きの為に使ったのです。表面的に「やるならよし。やらないなら駄目」と行動だけで判断をした。仕事をしてはならない安息日に病を癒す事を非難していた訳です。ですから水腫の人をこの場に置いたのもイエス様を「試す」つもりであったのではないかと私は思うのです。

その時にイエス様は『「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。しかし彼らは黙っていた。』イエス様に敢えて「安息日に病気を直す事が良い事か悪い事か」と言われ戸惑った。病気の人が直る事は悪い事ではない。でも「良い事」と言えば自分達は今後イエス様をこの事で非難する事は出来なくなる。では「悪い事」と言えば苦しんでいる人がいるのに見殺しにするなら、パリサイ人が冷たく、酷い人間であると告白する様なものです。それで彼等は答えられなくなってしまった。イエス様はその人を『抱いて直してやり、』ここに優しさがあります。この人は水腫を直されそのまま帰るのですから、この人は多分食事に招かれたのではなく、イエス様の動向を見る為に置かれた人であったかと思うのです。その時にイエス様は

「それから、彼らに言われた。自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」彼らは答えることができなかった。」(5〜6節)

自分の子供が井戸に落ちて「今日は安息日だから助けない」とは言っていられないです。井戸に囲いなどありませんでしたら、不注意に歩いていると落ちてしまう事がよくあった。ですから彼等をそこから救い出す事は安息日でも許されていた。では動物を救い出す事が許されているのに、何故人間が癒される事が許されないのかと問うているのです。彼等のいわゆる律法主義の愚かさ、間違いを指摘しているのです。

「招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座に座ってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれません。あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』と言うなら、そのときにあなたは恥をかいて、末席に着かなければなりません。招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上座にお進みください。』というでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(7〜11節)

この食事の席に色々な人が来ていたのでしょう。招かれた人達はきっと(私はどこに座ろうかな?)と色々考えていたのでしょう。それを見てイエス様は婚礼での座り方について例え話しを始めます。ユダヤ人は自分を上座に置こうとする習慣があった様です。日本人には謙譲の美徳がありますが、心の中で(あいつがあんな所に座っていて…)と言うようであれば同じです。自分が“何がしかの者”であると思うから良い所に座ろうとするのです。

人からの目を気にして、如何に自分が高く見られよう、高く評価されようといつも汲々としている面があります。こういう事であってはならない。あなた方はへりくだり末席に行く事が必要であるわけです。聖書には

「何事でも自己中心や虚栄心からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2章3節)

とあります。自分を高くするのではなくへりくだる事こそが大切である事を教えられているのです。

「また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたがたを招いて、お返しをすることになるからです。祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」(12〜14節)

いわゆるお返しが返ってくる人達に何かをしよう。これは(何時か自分に見返りがくるように)という動機で事をしている訳です。そういう動機で何かをしてはならない。だからそれが出来ない様な方々を招きなさい。聖書の言葉では

「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(マタイ6章3節)

と語っています。これは物事を強調して言っている訳ですね。私達は人に見せる為に、人に褒められる為に、人から評価を受ける為に行動するのでは駄目だといっているのです。却ってお返しが出来ない弱い人達にそれをすれば義人の復活の時に、神様からの報いを受ける事が出来ると教えているのです。誰でも褒められたり評価されたいと思います。もしその評価を地上で頂くなら天国での評価は消えてしまうのです。誰からも評価されず、褒められない時には、その評価は全部天に宝のごとく積まれているのです。ところが私達はついつい人から評価されたい、認められたい。これは天においては報いはゼロです。これが教会のあり方であるのを覚えていきたいと思います。

主を待ち望む者が

「イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう。と言った。するとイエスはこういわれた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。ところが、みな同じように断り始めた。・・・しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。・・言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者はひとりもいないのです。』」(15〜24節)

彼は自分には神の国で食事をする資格があると思いいったのでしょう。でもイエス様の言葉は厳しいものでした。『招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです』先ほども言いました、「万が一にも天の御国に入れない事がないように」ここに警告を下さっているのだと思います。本来ならば私達は神の国に入る事が出来ない者です。『あの人たちの中で、私の食事を味わう者はひとりもいない』非常に厳しい言葉です。もしこの事が厳密になされたら誰も御国には行けなくなってしまう。だからイエス・キリストが十字架に掛かって下さった。そして私達にその道を備えて下さったのです。

この警告から私達に何を語って下さったのでしょうか。第一に教えられるのは、私達の律法に対する考え方。私達は神の戒めを(これをしなければならない。あれをしなければならない)と表面的に考えて神様の愛や慈しみもみな忘れさってしまったような捉え方をしている事がないでしょうか?

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

私達は律法を知っている事など何の役にも立たない。それが愛によって動かされ、愛によって生かされていないならば、それは役に立たない。ところが私達は結構このようなことをやっているのではないでしょうか。? 神の言葉で人を裁く。御言葉の基準でお互いを裁きあっている。御言葉は愛の中で用いなければなりません。厳しい言葉は自分自身へのメッセージです。人に使うならば、愛という所でそれを使わなければならない。ところがついつい私達は反対に行ってしまうのです。もちろん自分を受け入れる事は大切でしょうが、裁きあう為に神の戒めや律法を使う事は間違っています。これを覚えておきたいのです。律法は愛の中にあってこそ大切であります。

第二には上座を取ろうとする者。日本人は謙遜心がありますから、これは当てはまらないと思う事は勘違いです。もしも自分よりも下と思っている人が上の立場についたりしますと、私達は不平不満がいっぱいになるのではないでしょうか? 私達は自分が“ひとかどの者”であると思っている。ですから本当の意味で人を尊敬出来ないのです。言葉では言わず態度で現さなくても、思いの中ではしっかりと序列を作っている。ここでは『あなたがたは末席に着きなさい』と言われています。それは全ての人を自分よりも優れていると思いなさいという事です。私達は神様の前にへりくだらせて頂き、末席を汚す資格すらない者であると思う時にこそ健全な霊的状態にあるのです。

第三に私達は誰かに物を与えたり、招いたりする時に見返りを要求する世界に生きてしまうと思うのです。愛の区別に「フィレオー(友人関係の愛)」または「ストルゲイ(家族愛)」があります。いわゆる“Give&Take”これ位はしてあげるから、それ位はしてもらおうという関係。一見悪い関係ではないように見えますがこれらは教会にあるべき愛ではない事を心に言い聞かせる事が必要です。

聖書は『愛し合いなさい』とは言いましたが、「甘え合いなさい」とは語っていません。いつしかその甘えは相手にストレスを与え関係をおかしくさせるのです。教会の中ではストルゲイやフィレオーの愛ではなく、“与えるだけ”一切の見返りを要求しない“アガペー(一方的な愛)”の関係だけが教会の中で許されている愛の関係なのです。そうでなければ必ずどこかで問題が起きてくるのです。そしてイエス様もその様アガペーの関係(与える愛)にある時にこそあなた方には神から報いが来る事を語っているのです。

最後に神様を大事にしなくてはと思ってもこの世の事を第一にしてしまう姿。私達は皆が天の御国に相応しくない者。その資格があるかと問われれば誰も「相応しい」と言う事は出来ない者ですが、。こういうどうしようもない私達だからこそ、イエス様は死んで下さった。だからその愛に応える者にならせてもらいたいと考える。これが私達が持つべき律法への姿勢なのです。

そして招待客には『貧しい人、不具の人、足なえ、盲人』を招待しなさい。これは私達の事です。神の祝宴に招かれる資格のある者ではない。でもそんな私達をこそ神様は招いて下さるのです。私達がこの神様の愛、神様の赦しをしっかりと心に受ける時、私達にも出来る事をさせていただこうという愛が芽生えて来るのではないでしょうか。万が一にも私達が御国に入る事が出来ない事がないように、私達はもっと遜って主に従う者とならせていただくことが大切です。その時に主は。

「それゆえ、主は、あなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ちあがられる。主は正義の神であられるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(イザヤ30章18節)

と答えて下さるのです。
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