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2001年12月23日(待降節第4週) 日曜礼拝メッセージ

「クリスマスの恵み」



 新約聖書 IIコリント 5章14〜21節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

いよいよクリスマス礼拝となりました。4つの蝋燭が並びました。真ん中のろうそくはクリスマスイヴにつけます。今日はクリスマスに神様が備えて下さった恵みを分かちあいたいと思いました。

恵みによる平安

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(17節)

私が30年ほど前、キリストを信ずるに至った一つの理由はこの御言葉の約束でした。即ち「生れ変わる事が出来る」。本当に生れ変わる事が出来るのなら、自分もそうなりたいと心から願ったからです。しかし私は神様を信じて直ぐにそれが分かり始めたのではありませんでした。信仰生活も色々な成長の仕方があるように思います。しかしいずれにせよ、神様が私達に触れて下さり私達を造り変えて下さる事に変わりはありません。

私はどちらかというと、スロースターターでした。でも結局は今この神様がいなかったなら、(自分は生きていけたであろうか)と思います。私はいつも何かがあると『恐れるな。私はあなたとともにいる。 イザヤ41章10節』この御言葉を思い出し、(神様がそう言ってくれているのだから大丈夫だ)と考え、心が落ち着いてくるのです。しかし神様なしでは大変難しいように思うのです。

自分の才覚に確かな自信がある内は良いですが、一つ転んだらもう不安で仕方がないのではないでしょうか? 今年、(絶対に大丈夫だ)と思われていたものが、大丈夫ではなかった事があちらこちらで判明しました。どこにも信頼出来る物がない事を私達は見たのです。その時に本当に頼りになるものを持つ事の大切さを覚えたことでした。もし皆さんの中にそんな不安を持つ方がいらっしゃれば、是非この平安を得て帰って頂きたいと思います。

わたしは、あなたがたの平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

イエス様は私達に“平安”を与えると言っています。これこそがこの不安な世にあってしっかりと生きていく土台ではないでしょうか? それは『世が与える』ものとは違うのです。私達は全てのことが順調であれば平安かもしれません。しかしそうではなく、順調でなくても困難があってもなお平安に生きる事が出来ます。それがイエス様の“平安”です。私達を何時如何なる時でも平安にする事が出来るのです。また、私達は自分の弱さ、苦しみから本当に解放され自由に生きる事が出来るのです、私達は、今日キリストにあって新しくされる秘訣をしっかりと握って頂きたいと思います。  では、誰がその恵みに与る事が出来るのでしょうかか? もう一度17節を見てみましょう。『だれでもキリストのうちにあるなら、』条件は“だれでも”です。「私は汚れているから」とか「私は小心者だから」等という事は関係ないのです。“だれでも”キリストのうちにあるのなら、その人は新しくなれる。たとえ私達がどういう状況にあったとしても、どんなに汚れた者、醜い者であったとしても神はこの私達を造りかえる事が出来るのです。

もし私達が心を開いて(この私を憐れんで下さい)と祈るなら神は応えて下さるのです。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』これは神様があなたに語っている言葉です。あなたが今どんな歩みをしていたとしても、どんな所を歩んでいたとしても、どんな者であったとしても、神様はあなたを造りかえる事が出来るのです。何故でしょうか?

愛に取り囲まれる

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちはキリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(18〜21節)

神様が私達を愛し受け入れて下さるお方だからです。神様にもどうしてもこれだけは受け入れられないものがあります。それは“罪”です。神は清く正しい方ですから、“罪”をそのまま赦すことは出来ないのです。愛の神は同時に正しく公平な神でもあります。ですから全ての人に正しい裁きをなされます。その裁きを免れる人がいるでしょうか?

聖書では全ての人が罪を犯したと書かれています。そしてその罪の責めを私達一人一人に負わせるのではなく、ただ一人の罪のないお方に刃を向けたのです。「私ががその人の責めを負いますから、父なる神様、この人にその刃を向ける事を止めて下さい」とキリスト自ら道を備えて下さったのです。私達が受けなければならない全ての罪の裁きをイエス・キリストが代りに受けて下さったのです。だから神様は私達との間に和解を成し遂げ、神様の愛を存分に、無限に与えて下さる事が出来るのです。そして更にこの恵みを受けて自分だけでなく、あなたは大使として他の人にもその恵みを分かちあう者になって欲しいと聖書は語るのです。

“クリスマスの恵み”−それは無代価で誰にでも与えられるこの神様の愛のメッセージです。私達は心を開いて(この私をも憐れんで下さい)祈りましょう。ここに集っている多くの方は既にそれをしてきた方々かもしれません。しかしその割にはその愛を十分に味わっていないという方もいるかもしれません。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」(14節)

『キリストの愛が私をとりかこんでいる』本当に私達の周りを神様の愛が取り囲んでいる事を日々その自覚に生きる事が出来るならば、私達は喜んで神様に従っていく事が出来るのではないでしょうか。(でもその事がなかなか味わえないだから神様に従っていく力がどうも弱い)と感じているクリスチャンの方も多いのではないでしょうか。どうしたらパウロの様に『キリストの愛が私をとりかこんでいる』と言えるようになれるのでしょうか?

以前彼はクリスチャン達を迫害し牢屋に投げ込んでいた者です。でも彼がダマスコに向かう途中でイエス・キリストに出会ったのです。イエス・キリストこそが自分の罪を赦して下さった事がそれこそはっきりと分かったのです。彼は迫害をしてきた自分が今赦され、愛されている。神様はこんな私を赦し愛してくれている。これは日々疑う事の出来ない神様の愛の現実であった訳であります。私達にとっても必要な事は、この犠牲の愛を知り真剣に受け取る事であります。私達も自分の罪がイエス・キリストを十字架に掛けたのだとはっきり知る事が大切なのです。

私達は自分の醜さを認めたくないが為に見て見ぬ振りをしてしまうのですが、自分の醜さや汚れ自己中心な姿を正直に認める時、救いが必要である事をはっきりと気がつかされるのではないでしょうか。私がこんなにも頑なだから、高慢だから、強情だから私を救う為に十字架の極刑までも必要であったのだと認める時、私達は神様の愛に今日も明日も取り囲まれていると信じて歩む事が出来るのです。 そして本当にイエス・キリストの十字架の意味が分かりはじめ、喜んで神様の為にも人の為にも奉仕する事が出来るようになっていくのです。

イエス・キリストはあなたを愛し、あなたの為に死んで下さいました。私達はこの単純な事実をもう一度真剣に受け止めていきましょう。そしてこの神様の愛に生きる者とならせて頂きたいものです。
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