このページについて
2002年1月1日 元日礼拝 日曜礼拝メッセージ

「神の国とその義とを」



 新約聖書 マタイ6章31〜33節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章31〜33節)

 

神の国とは?

新年明けましておめでとうございます。こうして共に礼拝をもって一年を始める事が出来る恵みを感謝致します。

いつも一年の始まりの時に、神様はどんな言葉を下さるのであろうか?と待ち望むのですが、暫く前から『神の国とその義とを』という言葉が心に留まるようになりました。そこで今年はこのマタイ伝から学ばせて頂く事に致しました。

社会的にも、経済的にも、先行き不透明な不安と混乱をきたす中にあって、私達が惑わされないでしっかりと歩んでいくにはどうすればよいのでしょうか。その秘訣がこの中に記されているように思います。皆さんは色々な事件、とんでもないことが起こりますと、どんなお感じになりますか? (とんでもないことがおきた)(あー来るべきものが来たんだ)とお感じになるでしょうか。私達はしっかりと状況を掴んでいる事が大切です。

「備えあれば憂いなし」とよく言われますね。しっかりと今の時を知り理解しているならば何か起きても(なるほどこういう事なのだ)とあわてず受け止めることが出来ると思うのです。ですから今置かれている立場や状況を正しく認識して歩む事は非常に大切なのです。でなければ私達はあっという間に、この世の状況の変化に惑わされたり、不安になったり、恐ろしくなったり、恐怖におののいてしまうわけです。実は聖書によりますと、そういう事柄はごく当然のようにあると書いてあるのです もっとはっきりと言うならば、これからの世の中は、もっと困難や苦しみが大きくなってくるし、悪が蔓延ってくる時代になると語っているのです。

「世の終り」という言葉がありますが、ある国の方が「恐ろしい事は日常茶飯事である」と言うのを聞いたことがあります。確かにあちらを見ても、こちらを見ても希望が持てる状況ではなく、困難や苦しみがますます広っていくように思えます。だからこそ私達はそういう状況の中でどのように生きるべきなのかしっかりと指針を持っていなければ揺るがされてしまいますし、とんでもない道に踏み込んでしまう危険性さえもあり得るという事です。

私達はついつい目に見える事“食べ物”“衣服”等に心を使いその事を心配するわけですけれども、もっと大切な事があるのです。

『神の国とその義とをまず第一に求めなさい』

どうしてか。それは

『そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます』

と書いてあるからです。私達は優先するべきものを間違えてはいけないのです。何を食べるか、何を飲むか、それらはみんな分かっている。それらは異邦人が切に求めているもの。天の神様は私達が食物や衣服を必要としている事をよく知っていらっしゃるのです。だから神の国とその義とを順序を間違えない様にと教えて下さったのです。

ところが“神の国”とは何ですか?と改めて問われますと、実は分かっていたつもりで案外分かっていなかったと言うことに気づかされるのではないかと思います。 まず第一に浮かぶ疑問は、神の国は既に来ているのか? それともこれから来るのか?と言うことです。イエス様はマタイ伝26章で

『ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』

と語られたことが記されています。ですから、ここでは、あきらかに未来の事として言っているわけです。でも同時に

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4章17節)

とか

「そらそこにある。」とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17章21節)

とも語られたのです。頭が混乱してしまいます。まずわたし達はこの事をはっきりと理解しておく事が必要でしょう。聖書では神の国は今この地上に現われ始めた事柄であるという事が出来ると思います。何時からか? それはイエス・キリストがこの地上に来て以来です。

インマヌエルとは、「神が我等と共にある」という意味であるとクリスマスの時にお話しました。イエス・キリストの誕生を通して神が私達の只中におられる状況が始まり、これがだんだんと広がり遂には完全な神のご支配の時がやってくると言うことです。しかしそれは今の状況が延長線上にあるのではありません。質も内容も全く異なったもの、“永遠の命”と言いましょうか“神の国”と言いましょうか、原語的に見ますと、未来の国が今の世に突入してきたという意味があるのです。要するに私達はこの地上にあって今や神の国を味わい始めている。イエス・キリストにより私達は現実に神の国を少しづつ味わい始めていると言うことなのです。

「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生れなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)

「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生れなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3章5節)

神様は“神の国”をこの地上にもたらして下さっているのでありますが、生まれ変わらなければ私達は見る事も、触れる事も、入る事も出来ないわけです。私達は神様の力、神様の恵みにしっかりと入っている必要があります。どうしたら良いでしょう?

それはイエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる事です。その時に神様は私達の内に新しい命を宿してくれるのです。そして今ここに記されてありましたように、生まれ変わりにより神の国を見たり味わったりする事が出来るようにして下さっているわけです。でも知って頂きたいのは、「し始めた時」です。ますますこの神の国は私達の内にあって広がっていかなければならないのです。

“神の国”の例えとして、パンにパン種(ふくらし粉)を入れると膨らむ様に、神の国も大きくなっていくと、また別の例えで、からし種は本当に小さな種ですが、それが成長すると3m、4mもの大きな木になる。その様に神の国はあなたがたの内にあって大変な威力を持って広がっていくものなのですと語っています。私達はこういう神の国をもっともっと知っていく必要がある。更にイエス・キリストがこの地上に来てなして下さったこと事に目を向ける必要があります。目の見えない方の目を開き、足の悪い方の足も癒し、38年間寝たきりであった人も即座に癒されました。多くの事が行なわれましたが、これは何かと言いますと神の国が本当に地上に来ている事を目に見える形で現す為にその事をなさったのでした。

私達はこの私達が“神の国”の一員とされている事の意義、重さ、深さをもう一度深く認識する必要があると思います。私達は自分達が救われたことをどちらかというと小さく考えてしまっているかもしれません。(救われて天国に行ければそれでいい)と。もちろんそれは幸いな事ですが、神様は将来において私達が頂く事の出来るそれらのものだけではなく、現在この地上にあっても“神の国”の力に与れるようにして下さっているという恵みです。イエス・キリストがこの地上に来て以来、大いなる祝福の中に私達を置いて下さっているのです。でもその事を知らなければどうでしょうか? 自分にその威力がある事を知らなければ、何も出来ませんね。

アメリカでの話ですが、ある農家の方がいまして、土地がやせていて少しも儲からない。ある日「あなたの土地を掘削させて下さい。」と訪問され、彼は「あそこは肥料をやっても何も育たない痩せた土地だからどうぞ勝手にやって下さい」と言いました。日も経ずしてそこからは巨大な油が出てきたのです。一日にして、彼は億万長者になってしまいました。ずっと前からその祝福は与えられていたのですが、彼等はそれを知らなかった、分からなかったのです。だから貧しい生活に甘んじなければならなかったわけです。

もしかしたらクリスチャンもそのような所、頂いている祝福や恵みを小さく考えてしまい、限定してしまっている為に、その偉大さを十分に味わわないままになってしまっている事はないでしょうか。折角神様を知ったのであるならば、この祝福にもっと豊かに与っていく。本当に多くの方が悩み苦しみの中にあっても尚喜ぶ事が出来るそういうクリスチャンにならせて頂く事が出来る訳です。「どうしてクリスチャンの人達はあのように平安でいられるのでしょうね?」その様に言われる者にならせて頂く事が大切なのです。

それでは最初の質問の“神の国”とは何でしょうか? “神の国”元々の意味は「神のご支配(バシレイアンツセウー)」神の支配がある所、そこが“神の国”だというのです。ですからもし私達が心から神様にお従いしますという心があれば、そこはまさしく神の国となる訳です。信じるという事はそこに従うという意味も含まれるでしょう。神様に心から「お従いします」という心の中において歩む人達の中には神の国がそこに現われていく。皆さんが色々な形で神様の奇蹟を経験した事があるのと思います。

そういう時を振り返ってみますと、神の御言葉に従った時ではないでしょうか? 神の御言葉に従う時には(本当に従って大丈夫かな)とか(この世の知恵と御言葉とどちらがいいか)と迷いますね。でも神のお言葉だからとそこに従う時にすごい事が起きるのです。

ペテロを覚えていますか。彼は漁師です。ガリラヤ湖の事は何でも知っていました。どこが浅くて、どこが深いか。でも彼等が一晩中網を下ろしても一匹の魚も取れなかった。そこにイエス様の「船の右側に網を下ろしてみなさい。」との言葉。皆さんならどうしますか? イエス様とはいえ、漁に関してはペテロの方がプロです。でもペテロはその時に、「一晩中取ったけれども取れなかった。でもお言葉ですから」と言って網を下ろした。すると一晩中漁をしても取れなかった網には、2艘の船が沈む程の魚が掛かってきた。これが神の御力です。

「また神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)

『信じる者に働く神の力』あなたの内には神の国が既に来ている訳ですから問題はあなたがそこに道を開くならば、その管になるならば当然神の力はあなたの内にやってくる。開くとは何ですか? 信じる事です。神様の言葉に期待し信頼し立つという事です。御言葉に従うという事です。そうする所に神の御業が現われる。「自分は従わないけれども神様の御業を現して下さい」これは少し難しいかもしれません。確かに救いは一方的な恵みです。でも信じた者には神様の力が宿っている。ですから、あなたはその信仰を働かせる事が出来るのです。あとは実際にあなたが、その信仰を働かせて御言葉に従って行くかどうかです。信仰に立つなら神様はそこに御業をなされるのです。この事を是非今年目指していきたいと思います。次ぎに“神の義”とは何でしょうか?

神の義とは?

「まことにあなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、パリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5章20節)

パリサイ人は聖書の教えを一生懸命に考えるのです。一例として『安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ。』ここではまず何が仕事であるかを決めるのですね。例えば礼拝からの帰りに庭を見ると落ち葉があった。それを拾うのは仕事かどうか? 葉っぱ位は良いだろう。では雑草が出ていた。これを抜くのは仕事であろうか? それを真剣に議論して考える。これが律法学者やパリサイ人達なのです。律法を守ろうと努力します。彼等は律法を守って救われ様としているからです。だから仕事をしたら大変だと思う訳です。イエス様はこんな彼等の義よりもまさる義でなければならないと言うのです。一体どういうものなのでしょう。

「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかしあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5章21〜22節)

人を殺してはならないのは旧約聖書からも教えられている事ですが、“神の義”とはそんなものでは不充分です。“神の義”とは兄弟に腹を立てる者は裁きの対象。皆さんの中に兄弟に腹を立てない人がいますか? 兄弟に言われ放題酷い事を言われたら、「いい加減にして」と腹を立てますよね。「馬鹿野郎」とか「マヌケ」こう言う者は既に裁きの対象です。これだけでも既に私達は“神の義”には当てはまらない者ではないでしょうか? 

「『姦淫をしてはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」(マタイ5章27〜29節)

姦淫がいけないのは当然である。性的な乱れ、また不品行はよくない。更に心においてする事でも、神の前には罪であり、裁かれる。これが神の基準だというのです。心においてまで本当に聖いままでいられる人がいるのでしょうか? 心まで聖められよと言う訳です。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつをしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5章43〜48節)

こういう基準。これを求めなさいというのです。この基準で「私は歩んでいます。」と言える人はいますか? これは自分の力では絶対に出来ない事です。「いや私は出来る」という人は頑張ってやってみて下さい。一日もしないで(駄目だ)と挫折すると思います。「出来ない」事をせよというのです。どうしてか? だから『神の国を求めなさい』なのです。なぜなら神の国の力によって、あなたはそれをする事が出来るからです。御霊の力によって、敵をも愛する事が出来るのだというのです。

神の国は既にあなたがたの只中にあるのです。ですから今の時代、私達はそれが出来るのです。この事を知るべきです。私達は自分を見てしまい(駄目だ)と思うのです。確かに私達自身には出来る力はないのです。でもあなたの内にいる方、今はまだからし種の様に小さいかもしれないけれども、皆さんの中にある“神の国”はどんどんパンが膨れる様に大きくなっていくのです。その様に偉大な力が今や私達のものになっているのです。

この事をもっと知るべきです。人に迷惑を掛けない様にこっそりと静かに歩みのがクリスチャンと思っている方もいるかもしれません。教会を堅い、暗い、つまらない。その様に思う方もいるんですね。しかし事実はその反対であります。教会は神の種が宿り益々生き生きと命が溢れていくのです。そこには喜びと希望と力が溢れていくのです。 神の国が自分の中にあり、その国が広がっている事を本当に信じて期待して委ねていく者に神の国は現実となるのです。私達はこの年、現実にこの神の国と神の義を事を求めていきましょう。神は私をも満たし私をも用いて下さいます。そうする為にはどうしたらよいでしょう?

“神の基準”を思い出す。人から悪口を言われたら、この世の基準では「そういう人は放っておきなさい」とか「その人は少しバーンとやって見返したらいいのよ」というでしょう。でも聖書は何と言いますか?『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』というのです。最初は正直に「私の肉には出来ません」と告白してよいのです。それをないがしろにしては次ぎのステップに進む事は出来ません。「出来ません」これが第一のステップであります。「でも私の内にいて下さるお方にはそれが出来ますから私にそれをさせて下さい」と祈っていきましょう。

「なぜなら神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14章17節)

神の国はこの様な所にあるのです。私達がその様な歩みに一歩従う、そしてもう一歩従う。そこに神の国が現われ、神の国の御力が注がれるのです。

一人の尊敬されているイギリスの軍曹がおりました。とても立派なので「どうしてそのように人から好かれるようになったのですか?」と質問したら、「つい最近まで私はそうではなかったのです」と答えが返ってきた。彼の部隊の中に一人だけクリスチャンがいたそうです。そのクリスチャンは他の人からの意地悪を受けていましたが、じっと耐えていました。ある時、軍曹の隣に彼が寝る事になりました。彼はいつも眠る前に祈りの時間を持っていました。軍曹は軍隊の重い靴で彼の頭を叩いた。でも彼は何も言わなかった。そればかりか次ぎの朝起きて見ると自分の靴が綺麗に磨かれて置いてあったのを見た時に、(本当に自分は負けた)と思ったそうです。軍曹は即座にイエス様を信じ、その時から変わったのだとたというのです。

またジョセフ・バトラーという女性がおりました。女性刑務所の担当になりました。それもひどい女囚のいる所を任された。どうやって彼女達を立ち直らせようかと環境を整えたり、色々としたのですが、なかなかなおらない。しかし自分に酷い言葉を浴びせ掛ける女囚達の側に行ってただ彼女達をじっと見つめる。裁く心や恨む心ではなく、彼女達の側にいる。すると罵声が段々と消えていってその内に「バトラーさん、お話を聞かせて下さい」と心を開いていくようになったというのです。その様にして女囚達が変えられていったのです。

私達も神様の大使としてまだ神様を知らない人達に“愛の福音”このような赦しを現す使者としてそれぞれの場所に置かれているのです。私達が愛を体験するようにと、まずイエス様が命を捨てて下さったのです。何も文句を言わず「私はあなたを愛している」と言って私達が負わなければならない一切の罪をイエス・キリストは負って下さったのです。その様な愛を受け取る時に、私達にも愛が生れ、また他の人にその愛を与える事が出来る者とされるのです。その時に神の国は、或いは神の国の前味がその隣人の内にも移り、広がっていくのです。伝道とはある意味そういう事ではないでしょうか? 本当に愛される、赦される、受け入れられる。それらを体験する。それぞれのセルや様々なグループ活動がありますが、その中で私達はこの様な関係を学び取る事が出来たらと願い祈っています。 神様は本当にあるがままにわたしたちを赦して愛してくれています。聞くだけではなく、実際の体験としてセルやグループで味わえたならと願います。なかなかそうならないかもしれません。私達の中には肉の思い、妬みや嫉妬、憎しみ等が常に交錯するからです。クリスチャンだからといって相変わらず、肉はある訳ですから。でもイエス様はその「肉」をも十字架に付けて下さったのですから、私達は信仰によってその死を受け取り、「神の国とその義とを求め」させて下さいと祈ろうではありませんか。失敗してもよいのです。イエス様はそれでも赦して下さるのですから「赦して下さる事を感謝します」と言って神の国とその義とを求めさせて頂きましょう。この一年を通して、神様の愛が、神様の赦しが、神様の受け入れがお互いの中に理解し味わえ、神の国を実感させて頂く交わりをもとめさせて頂きましょう。
ホームページ | メッセージ一覧 | メッセージダウンロード

このメッセージを読まれたご感想・ご意見をご自由にお寄せください。 こちらまで!

アクセスカウンタ