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2002年1月6日 日曜礼拝メッセージ

「探し求める神」



 新約聖書 ルカ15章1〜10節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

いよいよ2002年も明けました。この一年が祝福された年となりますように共に覚えていきましょう。さて、昨年末から猛烈に売れているキリスト書があります。「ヤベツの祈り」という本です。旧約聖書の中にたった2節しか出てこない祈り。ちょっとみると自己中心的な祈りにも見えるのです。

「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(I歴代誌 4章10節)

『私の地境を広げてください』とは神様が私達に与え様としておられる祝福。多くはそれを求め様としないので頂く事が出来ない。そうではなく私達に与え様としておられるものを全部下さいという事なのです。人と比べるのではありません。神様が私に用意して下さる祝福を全部下さい。私達自身が祝福されなければ“祝福の基となる”事は難しいです。“大いなる祝福”、“地境を広げる”、“災いから守る”著者はこれらを祈り続けていたら実際に神様は応えて下さったというのです。私達も神様の大きな恵みに心開いていきたいと思います。では神様の恵みは特別な人にだけ注がれるのでしょうか? そうではありません。どんな人の上にもあったのです。

失われた者

「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事をまでいっしょにする。」(1〜2節)

律法学者やパリサイ人にとって、これは信じられない出来事でした。彼等は取税人や罪人を「地の民」と呼んでいた。彼等には金を預けてはならず、何の証言も取ってはならず、秘密を明かしてもならず、孤児の世話をさせてはならず、慈善の資金を監督させてはならず、旅の道連れにしてはならない。彼等は信用出来ない輩だから彼等と一緒にいてはならないと差別的で拒絶的な態度であった訳です。

ですから律法学者、パリサイ人にとって「聖い神の御子」と言われているイエス様が何故彼等と一緒にいるのかが疑問でならなかった訳です。でもこれは私達にとっては慰めではないでしょうか? 時に(自分は神様の前に相応しくない歩みをしている。こんな私は神様に近づく事が出来ない。)と思うのではないでしょうか。でも彼等はイエス様の所に寄って行きました。そしてイエス様は彼等を『高価で尊い』と言われたのです。

「そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちにを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(3〜7節)

百匹の内一匹が見つからないと他の99匹を残してまで一生懸命に探し回る。そして見つかったら大喜びで帰ってくる。これは誰の事でしょう。パリサイ人や律法学者達が非難している“罪人”の事を指しています。一人の罪人が悔い改めるなら、天において大いなる喜びがある。神様は「一人の罪人=私達」を探し求めているのです。皆さんは自分がそれ程に高価で尊い価値のある者なのです。皆さんが救われた時に天において大いなる喜びがあったのを知っていますか? そういう存在が私達なのです。さらにもう一つの例えがあります。

「また女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう、あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(8〜10節)

ただ銀貨を無くしただけの話しではないと思います。結婚する時に10枚の銀貨を紐で一組にして首からぶら下げる習慣があり、その内の一枚が無くなった。これはどんな事があっても失ってはならない。借金のかたにも取れない非常に大切なものであっと思われます。当時、家の中は非常に暗く銀貨が無くなったら見つけにくい。ランプで明るくしたり、ござをどかして掃き出してみたり、一生懸命に探す。そのように神様によって探されるのはパリサイ人達によって罪人と思われている人々のことなのです。

この二つの話には共通点があります。第一に、羊も銀貨も共に失われた存在であると言うことです。羊は目が悪いそうです。羊飼いに守られてこそ生きていく事が出来るのであって、群れから迷い出てしまうと、崖に落ち込むかもしれません。自分では水や草がどこにあるか分かりません。探してもらわなければ野垂れ死にしてしまうのです。銀貨も同じです。暗い中で銀貨を落としたら見つかりません。捜し出してもらわなければ、何お役にも立たない存在であります。これは取税人や罪人だけではなく、“わたし”達のことでもあるのです。私達は神様から離れているなら、何をやっても、本当はむなしく、寂しく、孤独な「失われた存在」だからです。


探し出される者

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10章10節)

私達は「命」を持っていると思うのですが、今持っていると思っている「命」は“本当の命”とは言えないと聖書は語ります。そしてもっと“豊かな命”があるのだとも。でも私達が神様から離れてしまっているなら、失われた羊や銀貨の様に私達も意味のないむなしい失われた存在であると。

神様がない生き方はどんなに素晴らしい様に見えても、どんなに恵まれている様に見えてもいつも虚しさや孤独感や寂しさや悲しさがつきまとっているのではないでしょうか? そして失われた存在の私達は、探し出してもらわなければ自分では出口を見つけられない存在ではないでしょうか。羊は自分で羊飼いの所に戻る事は殆ど出来ません。ですから羊飼いに見つけ出してもらわなければ助からないのです。銀貨も本気になって探さなければ見つかりません。

神様は私達を本当に探し出そうとしているのです。今皆さんがこの場所にいるのは、神様があの手、この手を尽くして「こちらに来なさい」とみなさんを探して下さった結果なのです。今こうして私達が神様を礼拝する者、神様を求める者に変えられてきたのは神様が私達を本当に探し求めて下さったからなのです。ですからこれは神様が必死になって探し出してくれる程私達を『高価で尊い』と言って下さっていると言うことなのです。

あなたはご自分が99匹を置いてでも探し出してくれる程の尊い存在である事に気がついていますか? そして見つけた時には『悔い改める必要のない九十九人にまさる喜びが天にあるのです』とありますように、皆さんが救われた時には天国で歓喜が湧きあがったのです。「遂に信じて神の子供とされたね」と喜びが湧きあがったわけです。皆さん一人一人がそんな尊い存在である事を今日しっかりと覚えさせて頂きたいと思います。

これらのことがこの箇所で直接語られているのは取税人や罪人と呼ばれる人達の事です。それは彼らがそのまま価値ある者であり、また同時に神の子となるべき人であったと言うことです。どうしようもないほど荒れていた死刑囚が、隣の救われた死刑囚によって、神様に出会ったときに、まさに豊かな神の子としての姿に変えられていった証がありました。私達はこの羊飼いのも著で本当に変えられて行くことが出来るのです。ですから、私達は二度と羊飼いから目を離さないでしっかりと仕えて行く事が大切です。そしてそればかりでなく、自分が十分に神様から祝福を頂き、その祝福を味わい、今度はこの恵みを他の人にも分かち与えたいと思えるようにならせていただきたい者です。 その様にしてキリストの福音は広げられていくのです。私達が神様の恵みをもっともっと深く知って他の人に分かち与えざるを得ない程に受け取っていきたいと思います。

私達に必要なのは自分が失われた存在である事を認めて、「神様助けて下さい。」と言うことです。「こんな私を憐れんで下さい」そうするならばイエス様が私達の所に来て救いだして下さるのです。そして私達はイエス様を自分の救い主として信じ受け入れること。これで十分なのです。自分が罪人だから弱いからと嘆く必要はありません。それは「その通りです。私は失われた者です」と正直に神様の前に祈れば良いのです。そうするなら神様は「分かっているよ」と言って引き上げて下さるのです。そしてこの恵みの中から決して離れずいつもそこに留まる決意をしていきましょう。

人が何故そんなにも価値ある存在であるのか? それはこの福音により確かに人は罪赦され、が変えられていく事が出来るからです。見出され救われた者にとってイエス・キリストの福音はどんな状況にあっても本当の豊かさを持たせる事が出来、豊かな命をはぐくむ事が出来るのです。私達に必要な事は「こんな失われた者を憐れんで下さい。イエス様、私をもお救い下さい」と祈る事です。そしてまた「イエス様から二度と離れず、いつも恵みに留まれる様にして下さい」とも祈る言う事ではないでしょうか? 共にしっかりと神様の祝福に与っていく一年間とならせて頂きましょう。私達のた為に御自分の命をも犠牲にされる程私達が尊い価値ある存在だという事を忘れないようにしましょう。大いなる喜びがあなたが救われた時に天にあったのですから!
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