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2002年1月27日 日曜礼拝メッセージ

「さばきとあわれみ」



 新約聖書 ルカ15章25〜32節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

皆さんは友達や知人等周りの方が全て順調に進んでいくと嬉しいでしょうか?最初の一つ、二つは「良かったね」と心から思えるかもしれませんが、その人がどんどん進んで行き、自分が進まなかったらどうでしょうか?(少し失敗したらいいのに)とか何かあると(いい気味だ)とか結構酷い事を思ったり考えたりしている自分を見る事はないでしょうか? 今日私達は放蕩息子の兄の姿からこの弱さ学ぼうとしています。放蕩息子(弟)の兄は正にその状況であったかと思います。

裁きの心

前回放蕩息子は父親が生きている内に「財産を分けて下さい」と好き勝手な事を言い、もらったら直ぐに家を出て行ってしまった。そして湯水の様に財産を遣い尽くし、揚句の果てに無一文でボロボロになって帰って来たのです。ところが父親は息子を責めるどころか、「よく帰って来た」と両手を広げて帰りを喜んだのです。弟は受け入れられてよかったですが、兄の立場になって考えてみて下さい。片方は好き勝手な事をして家を出ていき、ぼろぼろになって帰って来た。自業自得です。もっと厳しく叱責をすべきだと思うのですが、親は甘く、何も言わないで迎え入れたのです。兄が帰ってみると、皆が飲んだり、歌ったりして騒いでいる。それに腹を立てたのが彼の気持ちです。分からないことはない感情ですね

「ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったので。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』」(25〜30節)

この文章から、兄息子は余り父親に対して良い感情を持っていなかったことが分かるように思います。何故かと言いますと家に近づくと音楽が聞こえてくる。素直な人ならば(どうしたのだ?)と一目散に家に駆け込むはずです。ところが彼は『しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねた』少し距離感があります。彼の中に父親に対して不信感があったと思うのです。そして内容を聞くと、あの放蕩三昧して来た弟の帰りを祝っている。それが気に入らずカッとなった。彼は弟がいる家に入ろうともしない。なだめに出て来た父親に対しても『長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』と言います。こういう時の特徴ですが、徹底的に自己中心の考えになってきます。彼は『戒めを破ったことは一度もありません』自分は何一つ悪い事をした事はありませんと言いますが本当でしょうか?

「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。・・・あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19章17〜18節)

戒めは『心の中で身内の者を憎んではならない』です。彼は弟の事を(あの弟は!)と憎んでいませんか?

では敢えて憎んでいないとしましょう。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』これはどうでしょうか。?

ですから「私は何一つ戒めを破っていない」というのは嘘です。もし本当に彼が憎んでいないなら、弟を喜んで迎えたはずです。彼は自分を正しく見る事が出来なくなっていた。のです。私達も皆自己中心な者です。そして、「人には厳しく。自分に甘く」なってしまいやすいのです。

『私に子やぎ一匹くださったことがない』結構私達もこう言いますね。(どうして私がこんな目に会わなければならないのか)とか(何故あの人ばかり良い思いをして、自分には良い事が来ない)とか。 本当に良い事がなかったのでしょうか? 私達が「生きている」これは誰かが私を育ててくれた。誰かがミルクを飲ませ、育ててくれた結果です。それでも今まで自分には何も良い事がなかったと言いきるでしょうか? ところが私達はいやな事がありますと、受けた恩を全部忘れてしまうのです。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103篇2節)

私達はしばしば主の良くして下さった事も、人のして下さった良き事もみな忘れてしまうのです。そう見てきますと放蕩息子の“お兄さん”とは誰の事かと言いますと、正に“私達自身”の事なのです。(彼を見て、弟が帰って来たのに何と了見の狭い人間か)と思うかもしれませんが、これが私達の本音、私達の本当の姿なのです。こんな醜い姿であるという事なのです。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17章9節)

 私達は自分がそんなに悪い者であるとは思っていないと思います。でも聖書のメッセージによれば私達の心は何よりも陰険であるのです。リビングバイブルには「人の心は芯まで腐っている。…どんなに悪質なものであるか、誰にもわからない。」となっています。「そこまで酷くない」と思うかもしれませんが、それはオブラートで隠れさせているだけなのです。泥水を静かに置いておきますと、清い水に見えます。しかしそこに棒を入れ攪拌すれば、泥が出て水は濁ります。実にこれが“私達の本当の姿”である事を知りなさいという事なのです。私達はこの放蕩息子の兄の様になりたくないと思っていても、その兄の姿は私達そのものであると認める事が大切なのです。ローマ人への手紙に次のように書いてあるとおりです。


「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の満ちを知らない。」「また彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ3章10〜18節)

これが私達の姿であるというのです。特に『彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその下で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、』とあります。考えて見ますと、致命傷になるような言葉、相手をぐさっりと傷つける言葉を平気で言ってしまっている事はありませんか? 他人事ではありません。私達は(しまった)と思うのですがしまったのではなくて、心の中にたまっていたものが出てきただけなのです。冷静な時はそれほではないかもしれませんが、私達も心が乱れているときであるならば、これは私達自身の姿であると認識していく事が大切ではないかと思います。これに対して父親は何と言いましたでしょうか?

憐れみの心

「父は彼に言った。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返ってきたのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」(31〜32節)

兄は父親に「何一つくれた事がない」と言いました。それに対し父親は「ここにあるものは全てお前の物である事を知らなかったのか?」彼は自己認識を誤っていました。自分を正しく見る事が出来ていなかったのです。どんなにすごい物を頂いていたのか分からなかったのです。そしてただ不平不満を言ってしまう者であったのです。

それに対して、また父親は弟を“死んでいた”と見ています。兄は弟を(羨ましい)と見ていた事に気づきませんか? (弟は身代を潰すまで好き勝手な事をしてきた。私はまじめにやってきたのに、何故私には良い事は何もないのだ)と言いたい訳でです。この言葉には(私だって同じ事をしたかった)との思いが隠れているような気がします。兄は裁きの視点で父親や弟を見ました。それに対し父親は憐れみの視点から弟を見たのです。ここに私達は神様の見方を教えられたいと思います。

兄の姿をもう一度見ていきましょう。先ほど「父親に対して不信感」を持っていたのではないかとお話しました。そして第二に「自分に対して甘い」『戒めを一度も破ったことがない』と平気で言える。自分の罪に対して非常に弱い理解しか持っていなかったわけですが、弟に対しては非常に厳しい、裁きの心で見ているのです。今日私達はこの兄の姿から教えられていきたいと思います。これは“他人事”ではなく“私達自身”の姿であるのではないでしょうか。ならば私達に必要な事は何でありましょうか?

「神へのいけにえは砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51篇17節)

あの放蕩息子は自分がどうしようもないとぼろぼろの気持ちになり帰って来ました。その時に父親は何の責め立てもせずに「お前は私の子供だ」と着物、靴、指輪を用意させた。弟は表において悪い事をやりました。一方兄も心の中で全く同じ事をしていたのです。弟は自分の非を認め悔い改め戻ってきましたので、父親は受け入れた。兄息子は(私も表面的には立派にやっている様に見えましたが、心は汚い思いでいっぱいでした。この私が問題であったのです。ごめんなさい)と悔い改める事が必要であったのです。

実は15章全体は誰に語られた言葉であったのでしょう。その答えは15章1節、2節書かれています。

「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話しを聞こうとして、みもとに近寄ってきた。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つびやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(15章1〜2節)

ここでの“兄”はまさしくは律法学者、パリサイ人ではないでしょうか。?そして“弟”とは取税人・罪人をさしていないでしょうか。?パリサイ人達はイエス様が罪人達と一緒にいるのを裁いたのです。言いかえれば彼等もまた自分達が悔い改めなければならない存在である事に気が付かなかったのです。この兄と同じ心を持つ私達にも必要なのは、(私自身が砕かれ悔い改めなければならない)というへりくだった心ではないでしょうか。

また、この兄の中には全く憐れみの心がありませんでした。弟がどんなに苦しい生活をし歩んで来たかを思いやる心はなかった。ただ裁きの視点でしか見る事が出来なかったのです。私達にも必要なのは、(私も兄そのものでした。傲慢でした。自分の思いやりのなさも見えませんでした。ごめんなさい)とへりくだる事なのです。その時に神様はその悔いた心を引き上げ、「いいのだよ。分かっていたよ。私はあなたを赦すよ」とあの放蕩息子を迎える父親の様に手を広げ私達にも向けて下さるのです。
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