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2002年2月3日 日曜礼拝メッセージ

「小さいことに忠実な人は」



 新約聖書 ルカ16章1〜13節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

先週から祈り会において、「終末」について学び始めています。世の終わりが来る事がはっきりと聖書に書いてありますし、私達はその時の備えをするべきであります。皆さんは世の終わりが来た時に、私達はこの地上にあって歩んで来た事一つ一つを神の前に報告しその歩みに応じた裁き(また報い)を受ける事が記されています。

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自自分の肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(IIコリント5章10節)

皆さんは「裁かれない」と聞いたからイエス様を信じたのに、(やはり裁かれるのか)と思う方もいるかと思います。確かに聖書には全ての者が裁かれると記されている訳ですが、同時にその時に、クリスチャンには弁護する方がいるとも記されているのです。そしてその罪の報いに対して、全てを贖って下さったイエス・キリストの故に赦され、良き部分に対しての裁きすなわちご褒美が用意されているとあるのです。私達はそういう意味でその日の為の良き備えをしなければなりません。

今日の16章を読んで理解が難いと感じた方も多くいるかと思います。要約して言えば「あなたがたは良き管理者でありなさい」という意味です。具体的には、金銭、時間、与えられている賜物等様々なものがありますが、これらを正しく忠実に管理したかどうかが問われるということです。私達は天に帰る時に何も持って行く事が出来ません。しかし私達はこの地上での歩みに応じた報いが与えられるというのです。その為の例え話がここに書かれている訳です。

誉められた不正な管理者

「イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。主人は彼を呼んで言った。『お前についてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』」(1〜2節)

管理人は一家の財産を任され一切を運営する働きをしています。信頼して任せる訳ですが、その彼が乱費しているという噂を聞いた。「あなたを信頼して任せたのに何故きちんと運営をしなかったのか?」 さてこの時彼はにこう考えました。

「管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、その人は『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐに座って五十と書きなさい。』と言った。それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。」(3〜8節)

「油百バテ」を「五十バテ」に書き換える事をして良いのかと思えます。ある学者が当時の貸し借りの事を調べた時に、例えばオリーブ油を借りたら80%の利子。さらに20%リスクがついて、50借りたものを100にして返す訳です。この人は「五十」借りた訳ですからそれを50のままで返せばよいのです。或いは小麦の場合は、利子が20%。「小麦百コル」を「八十」と書き直すとは同じ様に利子の分を取らない。そういう処理の方法であります。利子を取らず恩を売っている訳です。主人に対しても損をさせている訳ではないので、ぎりぎりの許容範囲ということができるでしょう。そして『主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。』ここで大体躓くのです。(裁かれるべきなのに、何故誉められるのか?)と思う訳ですが、例え話は注意して読む必要があります。ここで強調しているのは、“抜け目がない”事を誉めているのであって、不正を誉めているのではありません。

「いいですか、わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」(マタイ10章16章)

私達は『鳩のようにすなお』である事だけがクリスチャンであると思っていませんか? 私達は『鳩のようにすなお』に歩む事もとても大切な事でありますが、同時に『蛇のようにさとく』生きる事も大切なのです。この事に少し光の子は弱いと言っているのです。私達はそう言った面でも学んでいく必要があると思います。ここが今誉められている所であり、私達にも当てはめる事が出来るところです。では具体的にどういう事でしょうか?

正しく管理出来る者になる

「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなった時に、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」(9節)

『不正』これは元々の言葉では「アディキア」で、「不正」というよりも、「虚ろな」とか「表面的な」とかいう意味に使う言葉です。言い換えれば「移り行くこの世の」とでも訳しましょうか。「この世の富」であなた方は自分の為に“友”を作りなさいという事です。特にこれは“天国の友”を意味していると思います。そうしたら富がなくなった時に、彼らがあなた方を永遠の住まいに迎えるという訳です。でも(富がなくなると困るわ)と思う方もいるでしょう。でも私達は何も持たずこの世に来ましたし、何も持たず天の御国に帰るのです。そしてこの“富”とはただ単に金銭だけではなく、例えば私達の命、時間も神の贈り物ではないでしょうか? 受けているものを有効に用いて、神様の祝福に与る生き方をしなさいという事なのです。


私達はこの世の富を、本当の価値ある事の為に用いる事が大切です。私達は与えられた金銭、財産、命、時間、賜物、才能・・・・に関して管理を任された者と認識する必要があります。しかし私達はこれらを「自分の物」と考えていないでしょうか? 管理が任されているだけなのです。自分が与えられている物を正しく管理する責任がある事を受け取っていく事が大切です。

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたにまことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」(10〜12節)

ここでいう小さい事とは“お金”です。私達はそれらをどう扱うかが、天の御国の管理者としてあなたがどれだけ神様の祝福をもたらす者になるかどうかの見極めになるのだと言っているのです。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6章21節)

“お金”は私達の心が奪われやすい物ではないでしょうか? お金はあれば色々な事が出来便利です。ですが、一つ間違うと私達は“お金の奴隷”になってしまうのです。お金の為に平気で人を裏切ったり、普通なら考えもしない事をやってしまう。これは私達が『お金の管理者』ではなく、“お金の奴隷”になっている現状を現しているのです。私達は“お金の奴隷”ではなく、『正しい忠実な管理者』になる事が大切なのです。

「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(13節)

「富に忠実」とは“正しい管理者”である事です。その為には富の奴隷になるのではなく、神を第一にする事が大切なのです。その時に私達は初めて“正しい管理者”となる事ができ、忠実に用いる事が出来るという事です。お金に対する大切な勧めの言葉があります。

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる。」(マラキ3章10〜12節)

基本的には『神を試してはならない』というのが聖書の教えです。しかしこの箇所だけは『試してみよ』というのです。私達はお金に惹かれてしまいますから、中々出来ないと思うのです。でもそれをするなら、『天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ』と語って下さっているのです。神様は本当に賢いお方と思うのです。「幾ら捧げなさい」とは言わず『十分の一』です。例えば10円の十分の一を捧げる事は難しいですか? 人にあげる事も出来るでしょう。

それでは、100円の十分の一、1000円の十分の一、10万の十分の一、100万の十分の一、1000万の十分の一、1億の十分の一・・・・・・・普通なら額が増えればどんどん捧げられると思いませんか? でもそれとは裏腹に段々捧げられなくなるのです。我々は捕らえられてしまうからなのです。だから神様は『十分の一』を捧げなさいと言ったのだと思います。私達はこれにより正しく管理する基本が出来るからです。神様に守られ、それ以上の多くの祝福が与えられるのです。私達が神様を第一にしていく時に、神様の祝福の中に歩んでいく事が出来ると言う大いなる約束なのです。

私達は『正しい管理者』になっていく事が必要です。これは金銭面だけではなく、時間、能力等全ての面に渡ってです。

「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることは要求されます。」(Iコリント4章1〜2節)

私達は神様を第一にする時にそうする力が与えられる。神様に「その様にさせて下さい」と祈っていく。それが大いなる祝福の鍵ですね。私達に大切なのは『正しい管理者』として歩む時に、神様がその祝福を与えようとしておられる事をしっかりと覚えておかなければならないという事なのです。神様から「よくやった。忠実な僕だ」と言われる歩みを共にしていきたい。そして神様が溢れるばかりに注ごうとしておられる恵に共に与れる者となっていきたいと思います。
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