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2002年3月3日 日曜礼拝メッセージ

「感謝の心」



 新約聖書 ルカ17章11〜19節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

アメリカの心理学者 エルマー・ケイツが変わった研究をしました。人間の吐き出す息を冷やすと沈殿物が出来るそうです。怒っている時の沈殿物は栗色。悲しみや苦しみの時は灰色。後悔している時は淡い紅色。健全な時は無色だそうです。そして怒りの沈殿物をねずみに注射しますと、数分で死んでしまうそうです。仮に1時間腹を立てている状態の人の息からは80人を殺傷する毒物が出ているという研究結果を出したそうです。そうすると毎日大変な量の毒物を生産している事になるのではないかと思います。さらにキルリアン写真という特殊な写真で撮ると、人間からは確かに生体エネルギーが出ているそうです。憂鬱な時には、緑や青のエネルギー。気持ちが明るい時は黄色、黄金色、ピンク色のエネルギーが出るのだそうです。脳波も平安な時には、α波が出ます。でもそうでない時には、イライラする脳波が出ています。聖書の中には、

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Iテサロニケ5章16〜18節)

本当にこれがどんなに必要な事であるかを、先程の実験結果を見ても教えて頂けるのではないでしょうか。今日はご一緒に私達が感謝する心を忘れない者にならせて頂く為の学びをさせて頂きたいと思います。

癒されたらい病人

「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリやとガリラヤの境を通られた。ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せない。」彼らは行く途中でいやされた。」(11〜14節)

イエス様は、恐らく南に向かって歩いていたと思います。その途中にらい病の人が10人いた。彼等は非常に制限された生活を強いられていました。伝染病である事を含めその様にせざるを得なかったのかもしれません。

「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」(レビ13章45〜46節)

どんなに寂しく孤独な思いをした事でしょう。友達にも会えない、家族の元に行く事も出来ない。どんなにやりきれない心が彼等を覆っていたかと思います。そんな彼等に1つの良き知らせが入ってきました。それは方々で様々な病を治したイエス・キリストがこの町に来ているという話でした。彼等は噂を聞いて「この方に是非会って、私達も治してもらいたい。」と願った事でしょう。彼等は近づいて行きたくても近づく事が出来ません。ですから彼等は立場をわきまえて遠くに立った訳です。なんとしてもイエス様に聞こえて欲しい、こちらを向いて欲しいと、彼等はあらん限りの声を上げたのではないかと思います。

イエス様はこれを見て『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』と言ったのです。この意味はらい病の場合には宗教的な汚れも含まれていましたので、病気が治ったとしても、祭司が「きよい」と宣言しなければ、民衆の中に戻っていく事が許されなかったのです。それでイエス様は祭司に見せに行くようにと言ったのです。そこに行く途中に彼等は癒されました。10人の内9人は祭司の所に行ったのでしょう。しかし、

「そのうちのひとりは、自分がいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこで、イエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」それから、その人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」(15〜19節)

今まで苦しめられてきた病気が回復してきた事が分かった。どんな感激と喜びが彼を支配した事でしょう。彼は周りをはばかる事なく大声で神様を叫び褒め称えながら引き返してきた。そしてイエス様の前にひれ伏して、涙ながらにお礼の言葉を言ったのではないかと思います。もう1つ付け加えますと彼は『サマリヤ人』であった。本来は神様の祝福を受ける本流ではないのです。聖書の事を全然知らなかった訳ではありませんが、少し神様の違った教えを取っていたり、ユダヤ人から見るならば異端者と見られる民族でした。そのサマリヤ人の彼だけがイエス様の元に戻ってきたのです。

『あなたの信仰があなたを直したのです。』これは「あなたは外国人ですが、でも神の祝福を受け、神の恵みにより、あなたの正しい信仰があなたを直したのです。神との交わりを持つものとなったのです。」この事をはっきりと語って下さっているのだと思います。

恵みを日々忘れずに

さて、今日私達は、彼等の叫びを学ばせて頂きたいと思います。皆さんはお祈りの中で叫ぶという経験があるでしょうか。「そんな、はしたない事はしません。」と思うかもしれません。私が初めて韓国に行った時に、長老教会に行きました。そこでのお祈りは、ゴウゴウと騒音のようでした。自分も祈るべき時間なのですが、圧倒され周りを見ているだけでした。いつもの祈り方では周りの声がうるさくて自分の祈りの声が聞こえない。いつしか私も叫ぶように祈っていました。その姿を見ていて、韓国でのキリスト教の成長を思いました。ある人が韓国は祈りの教会で、祈りが天に上がっているから、神様の恵みが落ちてこざる得ないのだと言った人がいました。確かにその様な祈りに比べたら私達の祈りは弱いかなと思いますね。年がら年中でなくても本当に「ここぞ!」と思う時には祈ってもいいのではないかと思います。彼等の(病気が癒されて欲しい。)「イエス様!!!」と叫ぶこの気持ち。皆さんも本当に応えて欲しい時、こういう迫っていく祈りをしてもよいのではないでしょうか。私達はその様な祈りを神様に求めてみたいと思います。


「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」(ヤコブ4章2節)

私達はあまり「神様、神様」と求めすぎてはならないのではないかと心配するのです。でもこれは間違っています。確かに人に求めるのは良くない事です。しかし神様に対してはもっともっと求めるべきなのです。私達は方向を間違えて、神様に求めずに人に求めているのです。だから応えが少ないのです。本当は神に叫ぶべきです。そしたら人を通してであったり、色々な方法を通して神様が私達に答えを与えて下さるのです。是非この熱心な祈りを私達も学んでいきたいと思います。

又彼等が行く途中で癒された事を通しても学ばせていただきたいと思います。彼らが期待していなかったなら、「行って祭司に見せない」と言われだけでは、(行くだけでいいのなら誰も苦労しない)と思い、行くのを止めてしまったかもしれません。せめてイエス様が来てくれて、触れて祈ってくれたら、と思ったかもしれない。ただ「行け」とはあまりにも簡単すぎるのではないか。「いくら神様であってもそれは…」様々な理由をつけ、この神の言葉に従わない可能性があったと思いませんか。でも彼等は従いました。祭司の所に実際に向かって行ったのです。私達は神の言葉を聞いています。神の言葉を持っています。この聖書に沢山の約束が入っているのです。この約束を聞いて守っているか、従っているか。そうではない事の方がはるかに多いと思いませんか。ですからイエス様は言われました

「イエスがこれらのことを話しておられると、群集の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエス様に言われた。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」しかし、イエスは言われた。「いや。幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11章27〜28節)

聞くだけであっては、恵みにならないのです。聞いて守る人、行う人、従う人。そこに神の祝福がある訳です。目には見えなくても神には出来る事を信じてそこに従っていく者になっていきたいと思います。

ここまでは10人とも恵みにあずかった訳です。9人はそのまま祭司の所に行ってしまった。でもサマリヤ人はそうではありませんでした。「イエス様、有難うございます。何と感謝してよいのか分かりません。」私達に必要な姿勢、学ぶべき姿勢はこれです。私達の心の中には残りの9人の様な心があるのです。

「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」(ピリピ2章21節)

私達は皆自己中心ですから自分の益の為に神様を利用するだけなのです。神様の願いは、私達と“交わり”を持つことなのです。

「こういうわけで、私たちはキリストの使徒なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(IIコリント5章20〜21節)

神様は私達と和解し、交わりを持ちたいと願っているのです。でも私達はただ神様を利用するだけになってしまってはいなかと問われるのです。9人の人達は利用しただけでした。サマリヤ人だけが、イエス様と交わりを回復したのです。私達もここをしっかりと学ばせて頂く必要があるかと思います。更に彼に『立ちあがって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。』と言った訳ですが、彼は(自分みたいな者が)と恵みに与るに相応しくないと感じていたかもしれません。これは「私(イエス)とあなたとは関係がある。あなたは私への正しい信仰を持った。この信仰で行きなさい」と保証して下さったという事でもあります。私達はこの様に神様との親しい交わりを持つ者として歩ませて頂きたいと思います。

私達は本当に受けた恵みを直ぐに忘れてしまう者です。そして嫌な事だけを思い出してイライラとするのです。私達は悪い生体エネルギーを出したり、悪い沈殿物を作り出したりして過ごしていることが多いのではないでしょうか。神様にどれだけ感謝しているでしょうか。時たま思い出したように感謝しているにすぎないのではないでしょうか。

人の良くしてくれたことも、神様の良くしてくれたことをいとも簡単に忘れてしまう者ですが、是非時間を作ってそれら一つ一つに感謝する習慣、或いは毎日、毎日感謝を持って一日を閉じるそんな習慣を身につけて行きたいものです。
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