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2002年3月24日 日曜礼拝メッセージ

「主を裏切る心」



 新約聖書 マタイ26章47〜55節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

私達の信仰は十字架と復活に掛かっています。今週は「受難週」として、イエス様の十字架を深く覚える時です。毎年この週だけは、金曜日に受難祈祷会を持っています。イエス様が十字架に掛けられた朝9時から始め、召された午後3時まで行います。大きな十字架を真中に置き、自分の罪を思い、それらを書き出して十字架に釘付けにします。今日はマタイ伝の中からこの“受難”の様、その中でも一番中心的役割を担ったイスカリオテのユダについてご一緒に学んでみたいと思います。

「友よ」と呼びかけられるイエス

「イエスがまだ話しておられるうちに、見よ。十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群集もいっしょであった。群集はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまるのだ。」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群集が来て、イエスに手をかけて捕らえた。」(47〜50節)

ユダは3年半もイエスと共におりました。その間、5つのパンと2匹の魚で5000人の腹を満たしたり、盲人が見えるようになったり、重い皮膚病の患者が即座に癒されたりと数多くの奇蹟を体験してきた訳です。しかし彼はイエス様を裏切りました。何故こんな事になったのでしょうか? 想像するしかないのですが、ユダの気持ちも分からなくもないのです。例えばイエス様はある人達だけをえこひいきしている様に思いませんか? 何かというと、「ヤコブ」、「ペテロ」、「ヨハネ」でしょう。山上の説教の場面でも、ゲツセマネに連れて来たのもこの3人だけです。変貌山でイエス様の栄光を見たのもこの3人でした。

(ここにこんなに知性の優れた人物がいるのが分からないのか?)とユダが思ったかどうか分かりませんが、自分の事を評価してくれない。ユダとしてはイエス様が再び天下国家を作り上げてくれるであろうと期待しているのですが、『貧しい者は幸いだ。』とか『右のほほを打たれたら、左のほほを出せ』とか自分の心の願いと違う事を言う。どうもやる事成す事が自分の考えとは違うイエス様が段々と疎ましい存在、素直に聞き従うよりも、いつも批判的な目でしか見る事が出来なくなっていったのではないかと思うのです。しかしそういう気持ちは私達にもあると思いませんか? (何故神様はこんな事ばかりをされるのか?)と反発したい気持ちになる。これはユダだけではなく、私達自身の心でもあると気づかせて頂く事が大事であると思うのです。

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」(ヤコブ3章14〜16節)

もし私達の心の中に、『苦い敵対心や妬み』があるならば、気を付けなさいというのです。でも酷い事を言われたり、やられたりしたら私達の内に、妬む心、憎む心、恨む心が出てくるのは当然ではないでしょうか。ユダもそうでした。ですからこれはユダだけの問題ではなく、私達自身の問題でもあるのです。聖書によれば、実は私達は元々この世の霊(悪霊)に支配されていた事になります。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2章12節)

私達は神の前に悔い改めて真の神様に従う様になりました。でも以前は悪しき霊の奴隷となり、その支配下に置かれ、言ってはならない事、やってはならない事を平気でする者であったのです。気を付けなければこの流れに負けてしまう事も大いに有り得る訳です。その思いに捉われてしまいその誘惑に負けてしまったのがユダであったとするならば、そういう意味ではユダも私達も全く同じである事を知って頂きたいのです。

私達は自分の事しか、関心がないのです。ユダにとっても、様々な奇蹟は関係がなかったのです。自分を取りたててくれない、正しく評価してくれない。それが彼にとって一番の問題でした。神様の御業も彼にとっては無意味であったのです。ですから奇蹟を見ながらもなおイエス様を売り渡す行動にまでなってしまったのです。私達も十分に注意していきたいと思います。

同じ過ちはペテロも犯しました。『たとい全部の者があなたのゆえにつまづいても、私は決してつまづきません。』マタイ26章33節』と答えましたが、舌の根も乾かない内に、イエス様のことを『「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。マタイ26章74節』と記してあります。“イエス様の言葉に素直に従えない”これが危険なのです。イエス様の御言葉に素直に耳を傾けないとこの様な過ちに陥ってしまうのです。そして知らず知らずの内に神様の業を妨げる片棒を担ぐ事にもなってしまいかねないのです。


しかし大事な事はここで、イエス様がユダに対して『友よ。何のために来たのですか。』と語っている事です。イエス様は最期の晩餐の時にも、「今この中に私を裏切ろうとしている者がいます。悔い改めなさい。それは間違った行為です。」と諭していたわけです。でもユダは聞く事が出来なかった。そしてサタンの業に荷担し、イエス様を売り渡す為に出て行ったのです。

イエス様は裏切り者がユダである事、何の目的で来たのかも知っています。普通ならば「何故来たのか。あっちに行け」と言うのはないでしょうか? でもイエス様はこの場に及んでも『友よ。』と語り掛けられるのです。これは私達に対しても同じです。(こんな私は…)と自分を捨てたくなるような惨めで腹黒く、いい加減な私達に対して尚イエス様は『友よ』と読んで下さるのです。

「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(53〜54節)

イエス様は十字架を前もって預言していました。本当なら逃げる事も出来たのです。この少し前にペテロが衝動的な行動で、一人の敵の耳を切ってしまった。イエス様はその耳に触れて癒されたのです。そして『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びます。それとも私が父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下においていただくのができないと思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならない聖書がどうして実現されましょう。』多くの天使を今ここに連れて来て、即座に一網打尽にする事など簡単な事でありましょうが、そんな事をすれば神の御心がならない。あなたを赦す為の「赦しの道」がならない。だから私はこれを受けますと、自らそこに身を投げ出し捧げて下さった。

ところがこの姿を見て『弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。』一番肝心な時に、弟子達が見捨てて逃げてしまったのです。これが“彼等”の姿です。正直言いますとその後に続くのが“私達”ではないでしょか。私達がそこにいても、私達もまた同じ様に平気でイエス様を見捨てるような者ではないでしょうか? こういう愚かな、惨めな、いい加減な私達をイエス様はご存知なのです。それでいてなお『私はあなたを愛する』、『私の目にあなたは高価で尊い。』だから「私はあなたの為にこの命を捨てます。」と言って下さるのです。

今日私達は自分のいい加減さ、醜さ、弱さと共に、その私達を「友」と言って下さっている方をしっかりと目に焼き付けていきたいと思います。それは何故ですか? それは「私の目にあなたは高価で尊いから。」とイエス様は言っておられるのです。私達はこの神様の愛をしっかりと受け取っていきたいと思います。「神様の愛はまだ示されていないので、よく分からない」と言う方がおります。でも神様の愛はもう示されたのです。あなたの為に命を捨てて下さったのです。これ以上の愛が これ以上の愛の表し方があるでしょうか? これ以上の犠牲があるでしょうか? あなたの為に命までも捨てても、あなたはまだ「愛が分からない」と言うのでしょうか? 私達はただ「有難うございます。こんな私を高価で尊いといって下さる事を感謝します。」と言って神様の愛を受け取るだけでよいのです。そうする時に私達はこの愛に満たされて段々と、(こんな私でも本当に価値があるのだ。)(こんな私でも神様の栄光の為に用いられるのだ。)と自信を持って神様と人の前に出て仕える事が出来る様になるのです。神様はあなたを命を掛ける程に愛しておられます。そしてその愛の中に生きるものになっていただきたい。

今週は受難週ですので、出来れば日に3度イエス様の十字架を思いめぐらして欲しいのです。或いは皆さんの生活の中でイエス様なら、(こんな時にどう感じられるかな?)、(イエス様ならどう考えられるかな?)、(イエス様ならどう行動されるかな?)その事も思いめぐらして頂きたい。そして「そうだ。イエス様ならここで優しい言葉が出てくるであろうな。私には出来ませんが、イエス様、そのような愛を下さい。」という祈りが出来てくるのではないでしょうか。

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(Iヨハネ4章8節)

私達は愛される事を求めますが、私達が人を愛そうとした事はどれ程あったでしょうか? 自分に優しい人を愛すること簡単です。しかし、愛せない人を愛そうとする時は本当に戦いです。でも肉の思いに打ち勝って愛そうとする時。神様が愛して下さったと言うことの意味が少しづつわかり初め、自分の中にも神様の愛が少しづつ出てくるようになるのです。。愛する者を愛するのではなく、愛せない者を愛して下さるのが神の愛であり、その様に私達を見て下さる。もし皆さんの心に神様の愛が満ちて来たら“出来ない愛の一歩”を踏み出して頂きたいと思います。それによりもっと大きな神様の愛が皆さんの心に染み渡ってくるしょう。
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