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2002年4月7日 日曜礼拝メッセージ

「失望してはならない」



 新約聖書 ルカ18章1〜8節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 私たちの信仰生活は順調な時もありますが、反対にどうにも前に進まない状況の時もあります。そんな中で祈りが応えられるという経験には大変励まされますが、反対に応えられなかったと言う経験は非常な失望を与え、落胆して祈る力がなくなってしまうこともあります。信じて期待して祈ってきたのにそれが成らなかった時に、私たちは「祈っても結局神様は御心のままにしてしまうのだから、祈っても仕方が無い」とそんな気持ちになってしまうのではないかと思います。神様は「いつでも失望しないで祈るように」と今日のルカ18章から語って下さっているのです。

"信仰"は神様への信頼

「いつも祈るべきであり、失望してはならないないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに、『私は神を恐れず人と人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来て、うるさくてしかたがたない。』と言った。」(1〜5節)

 キリスト当時のイスラエルでは「盗人裁判官」という言葉が広まっていました。私たちは「裁判官」といえば、「正しい裁きをしてくれる者」と考えますが、この時代の裁判官はお金やコネにより審判結果を変えてしまうのです。その裁判官のところに来たのが、社会的に一番立場の弱い「やもめ(未亡人)」です。お金もコネもない中、どうやって正しい裁判をしてもらえるでしょうか。しかし彼女には一つの武器がありました。「しつこさ」です。四六時中「裁判をして下さい!」と願ったのでしょう。ひっきりなしにやってきて、気も休まらない。仕方なく「金もコネも取れる訳ではないが、きちんと裁判をしてあげようか」と思ったのです。

「主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、昼夜神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子がきたとき、はたして地上にその信仰がみられるでしょうか。」(6〜8節)

 イエス様は、「裁判官の言葉に聞きなさい。たとえ悪い酷い裁判官であったとしても、彼女がしつこく、しつこく、しつこくせめる時に、遂には正しい裁判をしてくれるでしょう。まして昼夜求めるあなたがたの為に、神様がどうして応えない事があるだろうか」というのです。しかし同時に、イエス様は少し気になる事も言っています。『しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。』

この箇所の「信仰」には定冠詞がついています。特別な意味での信仰という事が記されているのです。この文書の中心的な意味は、『この"信仰"が見られるでしょうか』ということばにあるのです。私たちは失望しないで、諦めないで祈り続ける信仰を持つべきなのです。「その」信仰があなたにあるかをイエス様は問うているのです。皆さんは神様に対してどういう思いを持っていますか?

 「信仰」とは、「神様への信頼の現れ」と言うこともできるのではないかと思います。少し想像してほしいのですが、いま皆さんの所にイエス様が来られたら、どういう顔をして来ると思いますか? ニコニコして来るか? それとも「いつもきちんとしないで!」と少ししかめ面をして来るでしょうか? 私たちが神様に対してどういう信仰、どういう姿勢を持っているかは、祈りの姿勢に大きな意味と大きな違いをもたらすと思います。イエス様がタラントの話しをした箇所を覚えているでしょうか。(マタイ25章15〜29節参照)

 主人が3人の僕にそれぞれお金を預けます。2人は一生懸命働いて儲けました。主人は「良くやった。」と誉めます。残りの1人は『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だと分かっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあ、どうぞ、これがあなたの物です。』と答えました。彼はご主人を「蒔かない所から、刈り取り、散らさない所から集めるひどい人」と見ていたのです。これは信頼ではなく不信感です。私たちもこのような不信感が芽生えている時が結構あるのではないでしょうか。

 神様はいちいち私たちを「聖書を読んでいるか」「祈っているか」「本気かどうか」など、色々とチェックされるのではないか・・。あるいは怒られるのではないか・・などと、神様を「ひどい方」と見ている時があるかもしれません。もしそうならば、アダムとエバが罪に陥った時の事を思い出して下さい。最初のサタンの誘惑の手は御言葉に対する信頼を「混乱させる」事から始まります。神様は、

「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」。」(創世記2章16〜17節)

と語られました。ところがサタンは、創世記3章1節を通して「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」とみ言葉への信頼を混乱させるのです。さらに4節で「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と語り、み言葉を否定し、神様への信頼を打ち壊そうとするのです。
 「本当に言われたのですか」と言われると「待てよ?」と少し不安になりますし、神の言葉への信頼を揺るがし、不安に陥らせる。そしてついに神の言葉に信頼できなくさせてしまうのです。そしてさらに「決して死にません」と神の言葉を一刀両断に否定し、さらに『あなたが神のようになり、善悪を知ることを神は知っているのです。』と言い、「神様は了見の狭い方なんだよ。あなたがたが知識を持つ事を嫌っているのだ。知識をお前達にやる事を勿体なく思っている了見の狭いのが神なのだ。」といかにも神様が意地の悪い方であるように思いこませるのです。

 時々、「神様に従っていても、あまり良き事がないな。神様に従わなくても結構良い生活ができるのではないか」と思う事ありませんか。そしてその結果として、神様に対する不信感を増長させてしまう事があるのです。私たちはこれを十分注意すべきです。こういう思いを持ちながら、どうやって神様を信頼して祈る事ができるでしょうか。この思いを払拭しなければなりません。ではどのようにしてこのような不信感を払拭できるのでしょうか。それは神様は私たちをどのように見ているかと言うことをはっきり知ることです。

私たちを愛する主

「その日エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3章16〜17節)

 神様は笑顔で皆さんを迎えて下さるのです。『主は高らかに歌われ』、迎えて下さるのです。神様は私たちにこういう思いを持って下さっているのです。神様はあなたが好きなのです。こう言われると嬉しいと思いませんか。色々と神様に従わないでいる私たちを、神様はにっこりしながら見守っていて下さる。神様は私たちを喜び、楽しんでいて下さっている。私たちはそういう対象である事をしっかりと心に留めるべきだと思います。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8章31〜32節)

 神様はもちろん「立派な私」も喜んで下さいますが、そうでなく自分で自分が嫌になってしまう様な「私」を喜んで楽しんでいて下さるのです。この大きな愛で神様はあなたを包んでいるのです。

 今日の聖書箇所には、神様はすみやかに裁きをなさらないはずはないと記されています。しかし、時には私たちの願った通りに叶えてくださらない事があると言うことも知っておく必要があるかもしれません。もし2才の子が「包丁を貸して下さい」と来たら貸しますか? 貸す人もいるかもしれませんが、多くの方は「だめだめ、もう少し大きくなってからネ」とか、渡すにしてもおもちゃの包丁を渡すでしょう。皆さんの願っている通りに応えられるかどうかは分かりません。でも神様は皆さんの祈りを本当に聞いて下さっているのです。皆さんの事を喜び楽しんでいるお方が意地悪をするでしょうか? もし祈りの応えが遅れていたとしても、それには意味があるのです。私たちはその事をしっかりと受け取っていく事が必要です。ではどうしたら良いのでしょう。それは、正直に私たちの願いをもっともっと神様に申し上げていくことです。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神様に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4章6〜7節)

 何も思い煩う必要はありません。「私みたいな者ではだめだ」とか「こんな酷い歩みをしている自分だから」とか、そんな思い煩いを一切捨てて、感謝をもって祈りと願いを捧げる。弱い私たちでも赦して下さる。そんな私たちでも愛して下さる。感謝ではないですか。感謝をもってあなたの心を全部洗いざらい言ってごらんなさい。失望しないで諦めないでその事を言い続けなさい。そうすれば神様はあなたがたを平安で満たして下さる。「失望しない、諦めない」 この気持ちは神様を信頼する心から出て来るのです。

 神様は本当に赦して下さっている。私たちを好きだと言って下さっている。この方に大胆に近づき求めていこうではありませんか。イエス様は『しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰がみられるでしょうか。』と語られています。私たちが神様への信仰を熱くし、信頼感を持って接しているならば、正しく神様に応えて頂ける信仰が養われていくと思います。どうぞ今日から時間をとって折々に自分の事を笑顔で迎え入れて下さる神様を想い浮かべて下さったらと思います。神様はあなたが大好きで、愛して下さり、あなたを喜び楽しんでいるのです。その事を思うとイエス様に信頼をもって祈れるのではないでしょうか。神様の恵みをもっとたくさん頂いていくお互いでありたいと思います。
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