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2002年4月21日 日曜礼拝メッセージ

「国籍は天に」



 新約聖書 ピリピ3章20〜21節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(20〜21節)

その日への備え

今日は天に帰られた方々を思う、召天者記念礼拝ですが、毎年この礼拝を持つ事を嬉しく思います。しばしば「私たちは見守る者、彼らは先に行った者」と、こういう感覚で見てしまいがちです。でも現実には私たちは毎年、先に行った人達に近づいているのです。言い換えれば、その備えをする事が召天者記念礼拝のもう一つの意味ではないかと思います。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは、労苦とわざわいです。それは、早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(詩篇90編10節)

「それゆえ、私たちに自分の齢を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90編12節)

日本の平均寿命は今や世界一です。聖書の時代では「80才」は既に長生きと思われます。しかしこれも「永遠」という観点で見ると、瞬きのような時間でしょう。だから『私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください』とある通り、私たちはもっと「自分の人生の限られている」ことを知り、何が悔いのない生き方であるかを考える事が大切ではないかと思います。

長くホスピスで働いていた方が「人はその人が歩んできたように召されていく。」と言っていました。死ぬ時だけ「良いかっこう」で召されていく事はないのです。「今」の生き方が、召される時の姿でもあるのです。そういう意味で私たちは「今」を正しく数え、正しく歩む事がどんなに大切かを思うのです。死を前にした私の先輩牧師(50代)の手紙を少し抜粋して読みます。

私事で恐縮ですが、私は癌で手術が不可能なため、残り三ヶ月の命です。それまでは全く自覚症状がありませんでしたので、晴天の霹靂でした。私に残された日数が大体どの位であるのか知らされ、それに基づいて仕事の引継ぎや家族との対話、自分の責任を果たす事に集中できています事は私にとって最高の幸せです。これほどの充実感はかつて無かったと思うくらい恵まれた毎日です。もちろんの事ですが、死に対する恐怖を感じたり、不安で眠れなかったりした事は一度もありません。信仰こそ勝利であるとつくづく思います。この二ヶ月ほど主の十字架の贖いの現実、また天国の現実を今までになかったほど身近に感じています。私の病状については、礼拝で教会の者には伝えましたが、その時に他教会の方々には知らせないで下さいとお願いしました。本来なら皆様お一人、お一人にお電話で知らせるべきなのですが、今は引継ぎや何やかにやで非常に時間に追われておりますので、詳しく説明したり、皆様のお見舞いの電話に対応させて頂く時間がございませんのでこのようにさせて頂きました。皆様の個人的なお見舞いの電話には安静という点から、勝手ながら対応を辞退させて頂きたいと思いますが、スタッフ、リーダー達への主要な引継ぎがほぼ終了するまで主が命を支えて下さるようにお祈りして下さると感謝です。また、私の個人的な希望ですが、葬儀は行わず家族だけの密葬とさせて頂きたいと思いますので、葬儀のご案内は差し上げませんので悪しからずご了承下さい。ご家族、お働きの上に主の溢れるばかりの恵みが満ち溢れますようにお祈り申しげます。

これが召される約一月ほど前の手紙です。何と勝利と平安に満ち、希望と喜びさえある日々でしょう。彼はこんな充実した日々はないと言っているのです。私たちは確かに自分の日を正しく数えていません。(まだまだ先の事)と思っている事が多いのではないでしょうか。

在原業平は「ついにゆく 道とはかねて知りながら 昨日今日とは おもわざりしよ」と歌っています。誰にでも必ず来る日。それが「死」です。これを逃れられる人は一人もいません。しかし私たちはその日の事を軽く考えて、充実した日々の過ごし方を失ってしまっている。自分の日を正しく数え、本当に悔いのない生き方を求めていく事が大切ではないかと思います。
ではどうしたら本当の「備え」を持つ事ができるでしょうか。その時に悔いなく「私は先に行く」と力強い歩みを身につけていく為に何が必要でしょうか。先ほどの詩篇には『知恵の心を得させてください』と記されています。「知恵」とは、将来私たちがどのようになり、どこに行くのかをはっきりと知り、正しい備えをする事ではないでしょうか。それは『私たちの国籍は天にあります』とある通り、彼らはいま、「天」にいる、ということを、しっかりと受け取らせて頂きたいのです。

私たちは忙しく目の前の事をこなすだけで精一杯です。しかし私たちは先を見なければなりません。多くの人は「神などいない。天国など関係ない」と言います。でも本当にそうでしょうか。聖書ははっきりと、一度死ぬ事と、死後裁きを受ける事が定まっていると語っています。そして同時に、イエス・キリストはそこからの救いと完全な赦しの道を備えた言って下さっているのです。私たちはこの道をしっかりと握ってはっきりとした希望を持って生涯を進んでいく事ができる者にならせて頂く事が必要です。

どのようにして"知恵"を頂く?

「主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。」(詩篇111篇10節)

本当に神様を恐れる時に、私たちは「正しい知恵」を持ち始めるのです。私たちは多くのものを恐れます。困難、病気、死を恐れるかもしれません。人間を恐れる事もあるかもしれません。しかし聖書では、

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10章28節)

私たちは、本当に恐れるべき方を恐れるべきなのです。別な言い方をしますと、私たちは恐れるべきでないものを恐れているという事です。私たちが恐れるのは、何を頼りにしているかによって変わります。力強い人を恐れているなら、その人に囲まれているうちは安心かもしれませんが、もっと強い人が来たら恐くなります。お金に頼っているならば、お金を処理できるうちはいいのですが、それを越えると恐くてなりません。しかし神様を恐れるならば、私たちは他の何ものも恐れる必要はなくなってくるのです。死さえ恐ろしい事ではないのです。私も実際に地上に生きるよりも、「早く天国に行きたい」気持ちが本当にあるのです。

「私は、その二つのものの間に板ばさみになっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」(ピリピ1章23〜24節)

天の御国は本当に慕わしく、麗しい場所。天国を目前にした時に、彼らの内には喜びが溢れるのです。「あそこに行ける」と確信を持って歩む事ができる。私たちは希望を持った備えをするならば、死は恐怖ではなく、一番大きな希望に進んでいくのです。皆さんの愛する方はいまそこにいるのです。きっと「こんな事ならもっと早く来たかった」と言っていると思います。そして私たちに必要なのは、この方に会えるように備える事です。それはイエス・キリストによって備えられているのです。私たちが天国に行く事を拒むものは、"罪"です。罪のあるままに天国に行く事はできません。もし罪を持った人が行けば、そこは最早天国ではなくなります。でもイエス・キリストはその罪を全て赦し、清めてどんな人でも天国に行けるように道を備えて下さったのです。それが十字架です。召天者記念礼拝は毎年4月か5月に持っています。それはこの季節に復活祭を祝っているからなのです。

私たちは『栄光のからだによみがえる』と聖書は語ります。復活は信じがたい事ですから、イエス様は何度も何度も実際に人々に現れたのです。そのイエス様を聖書では「初穂」と言っています。初めての実です。同じ様に今度は私たち、あるいは先に召された方々がよみがえり、、栄光の体が与えられる。もう病気になったり、痛かったり、苦しかったりする体ではありません。神様はあなたのためにもその道を備えて下さいます。私たちも、それを聞いて知らん振りをすることなく受け入れ、本当の希望を持って前に進んでいく最期を迎える備えをしていただければと思います。神様が皆さんの生涯を豊かに祝福して下さいますように。そして今日という日を本当に悔いなく生きる者とさせて頂きましょう。
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