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2002年10月6日 日曜礼拝メッセージ

「人の思い」



 新約聖書 ルカ22章63節〜23章12節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

日本の諺に「君子豹変す」というものがあります。これは良い意味、悪い意味のどちらであると思いますか。元々は良い意味なのですが、最近は豹変して「悪くなる」という意味で使われる事が多くなっているようです。確かに「あの時まで自分に優しく親切にしてくれた人が、今はこんなに酷い事をするのだろうか?」という事があるものです。人間はその様な悲しい現実を抱えています。今日は、ルカの福音書22章63節以降を通して「人間の思い」がどのようなものであるのか、そして私達はそれにどの様に対処していけば良いかを学びたいと思います。

人間模様

「さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、「言い当ててみろ。今たたいのはだれか。」と聞いたりした。また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた。」(63〜65節)

イエス様は捕らえられ、大祭司の家に連れて来られました。逃げられては困るのためか、監視人がつけられました。監視人たちはイエス様をからかい、鞭で叩き、悪口を浴びせたのです。彼らはイエス様から何か悪いことをされたので仕返しをしたという訳ではありませんでした。「付和雷同」という言葉がありますが、周りの人々が色々と言うので一緒になってやったのではないかと思います。

「夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」するとイエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから。」と言った。」(66〜71節)

イエス様を捕らえた張本人は祭司長たちでした。本来なら誰よりもイエス様を待っていて歓迎するべき人達でした。聖書の教えを人々に教え、その儀式も行なってきたのですから。ところが、その彼らがイエス様を攻撃する急先鋒となったのです。イエス様が真実を語っても、彼等はそれをイエス様を手玉に取る為の口実にしか用いないのです。この事は総督ピラトも見抜いていたようです。聖書は、

「ピラトは祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。」(マルコ15章10節)

「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」(ヨハネ11章48節)

と記しています。彼らは妬みとローマ帝国への恐れの結果として「救い主」を闇に葬ろうとしていました。これが祭司たちの姿であったのです。次は、ピラトの姿を見てみましょう。

「そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。するとピラトはイエスに、「あなたはユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです。」と言われた。ピラトは祭司長たちや群集に、「この人には何の罪も見つからない。」と言った。しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです。」と言った。それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである。」(23章1節、3〜7節)

ピラトはローマから派遣された総督として、国を治める者でした。彼はイエス様の言葉を聞き、『この人には何の罪も見つからない』と言っています。宗教的な事に関してはとやかく言わない事にしていたピラトが、「イエスには死刑にする様な罪はない」というのです。しかし、人々が十字架刑を要求し続けたため、問題が生じるのを恐れて、ヘロデに責任を転嫁しようとしてしまいました。真理だと分かっていても自分の身を守る為に真理を曲げてしまう・・。平気で人を殺す事をも許してしまう人間であったと言えるかもしれません。次に出て来るのはヘロデ王です。

「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは彼には何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。この日、へロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」(8〜12節)

ヘロデとはバプテスマのヨハネの首をはねさせた人物です。最初はイエス様を見たい、出来れば奇蹟にあやかりたいと思っていました。しかし自分が得をする内は好意を抱いていましたが、一度自分の役に立たないと分かると、逆にイエス様をあざけったあげく、ピラトに送り返してしまいました。この時から二人は共通の敵「イエス」を通して仲良くなったと記してあります。これが人間だという事です。私たちはここから真の「人間の姿」と、それに対する対処を見ていきたいと思います。

清められるのに必要な事

イエス様は弟子達を伝道に遣わす時に、

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼のp中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」(マタイ10章16節)

皆さんが今この世に生きているのは「狼の群れの中に羊が歩んでいる」ほどの危険な状態だと神様は見ているのです。しかし私達は「そんなに危険はない」、「考えすぎだ」と思っている事が多いのではないでしょうか。私達はもっと「人」を正しく見ていく事が必要だと思います。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17章9節)

『何よりも陰険』− これが本当の人間の姿なのです。ある方は「確かに人間とは陰険だ」と誰かの事を思い浮かべて言うかもしれませんが、このことばは同時に私達自身のことをも言っているのです。この事を受け取るならば、他人の姿を見てもがっかりする事は少ないのではないでしょうか。人の表面には見えないけれど奥底には腐ったもの、醜いものがあると聖書は語るのです。ですから救いが必要であり、救い主が与えられたということなのです。

「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者が、いるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」(詩篇14編1〜3節)

「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和への道を知らない。」「彼らの目の前には、神の対する恐れがない。」(ローマ3章10〜18節)

これが神様の認識です。『だれもかれも』とは“あの人”、“この人”であり、私達自身もなのです。全ての人がこうだと言っているのです。環境や状況によって、そこまで酷い状態が出ていないだけかもしれませんが、私達はこの様な醜いものを本当は持っているのです。その事を認識し、それに応じた対応をしなさいというのです。もし私達がこれをしっかりと受けとるなら、自分の酷い姿、醜い姿を見てもそれ程落ち込まないと思います。「やはり私の中にも確かにそれはあったのだ」と気が付くでありましょう。人の姿を見ても「人間の本性が出たんだな」と思うだけでしょう。しかし、それだけで良いという訳ではありません。私達はそこから変えられていく必要があるのです。イエス様を見張っていた人たちは、自分に直接の関係がなくても、周りの雰囲気で人をののしったのです。私達も同じ心を持っているのではないでしょうか。自分の考えからではなく周りの意見に動かされてしまう人間ではないでしょうか。次に祭司に目を向けてみましょう。彼らは真理を知っていたはずですが、その真理に目を開こうとはなしませんでした。それは「妬み」の故です。

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかしねたみの前にはだれがたちはだかることができよう。」(箴言27章4節)

私達の中に生まれ出てくる「妬み」に対してもっと目を向ける必要があると思います。これがある時に、自分でも分からないようなことを言ったりやったりする事があるのです。

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみや敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は上からきたものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」(ヤコブ3章14〜16節)

私達が悪霊に囚われてしまう時があります。それは「妬み」によるのです。妬みだけではなく、「敵対心」もあげられています。これらを放置していると、悪いことを次々と言ったり、やったりしてしまうようになります。ですから私達はこれらを取り除いていく必要があるのです。そしてピラトの姿を見ますと、人の目を気にしてしまう姿を見ることができます。また自分の興味のある部分だけを見てしまうヘロデの姿もあります。彼らの姿は、私達自身の姿でもあるのです。

「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みに落ちる者がないように、また、苦い根が目を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、・・」(ヘブル12章15章)

私達の内側からは様々な苦い根が芽を出してくるというのです。その時に私達は「誰にでもある事だから仕方ない」と見逃しているでしょうか? もしそうならば、律法学者やパリサイ人達、見張り人達、或いは自分の都合の良き所だけを利用し、あとは嘲弄するのと同じ行動が出てくるかもしれません。私達の中に巣くう苦い根を切りとっていく必要があります。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネI 1章8〜9節)

私達は芯まで腐っています。でもなかなかそこまでは告白できないのです。言い訳や弁解をして誤魔化してしまいます。しかし、そうするなら私達のうちに真理はないのです。私達はそれを正直に認めなさいということなのです。レビ記には、らい病の者は「私は汚れたもの」と言いながら歩かねばなりませんでした。しかしらい病が全身に現われればその人は聖いというのです。これは罪という観点から見るとよく分かります。自分に罪があると言ううちはまだ弱いのですが、自分が罪の塊であると認識すれば、その人は「聖い」とされるのです。実際にそこまで私達が自分の罪を認めるようになると、結構そこから解放される事が多いのです。「状況がこうだからではなく、私という人間が妬みの性質を持っているのだ。普段は隠れていて見えないだけで、本当はその弱さを持っているのだ」と自分の弱さや罪深さを心底認めて、イエス・キリストに救いを求める時に私達はそこから変えられていくのです。この恵みに生きるのがクリスチャンなのです。その様に私達は罪の告白を信じているでしょうか。「パリサイ人、祭司長、監視人たちは、なぜこんな酷い事をしたのか」− 私達はそう考えてしまいますが、その弱さは私たち自身の弱さでもあるのです。よく考えずに他の人の影響を受けてしまう私たちなのです。自分の利益のためには平気で人を裏切り、恐怖のために真理をまげてしまう。自分の都合の良い内は喜んで迎え、役に立たないと思ったら捨て去る自分勝手な醜い者。これを正直に認め、そこから解放されていくならば、他人の弱い面を見ても「これが人間の姿なのだ」と赦すことができるようになってきます。私達はそういう罪をイエス様によって赦され、真実な者に造り変えられつつあるのです。いつも神様により生き様に歩んでいくお互いにされていきたいと思います。
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