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2002年10月20日 日曜礼拝メッセージ

「十字架の表と裏」



 新約聖書 ルカ23章13〜49節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

物事には表と裏があるものです。表面に出てきた事と違う、深い意味や内容が裏に隠れている事がしばしばあります。教会に来ますと必ず十字架を目にしますが、今日はその意義を様々な観点から見てみたいと思います。

妬みの結果

「ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆を呼び集め、こう言った。「あなたがたは、この人を民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は何も見つかりません。」(13〜14節)

総督ピラトはローマからユダヤに派遣されており、ユダヤ国内で最も位が高く権力のある立場でした。その彼がイエス様には『あなたがた訴えているような罪は別に何も見つかりません』と認めているのですから、当然それが通るはず。ところが、そうではなかったのです。

「しかし、ピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当る罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」ところが、彼らがあくまでも主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。」(22〜24節)

こんな逆転裁判を見た事があるでしょうか。裁判官の「無罪」宣告が、全く効力が発せられずに十字架刑が決定されてしまったのです。イエス様が地上でなさった事は、そんなにも酷い事だったでしょうか。病人が癒され、孤独であった人が本当に愛されて、嫌われ者であった人が受け入れられ、人々がそこに神様の愛を感じたのです。ところが、本来ならば一番にイエス様を迎えなければならない、ユダヤ教のトップにいた「祭司長たち」が先頭をきりイエス様を訴えた訳です。これ程の不条理はありません。私達にも時々こういう事があります。いくら進もうとしても前に進めないという事が、実際にあるのです。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6章12節)

私達は「あの人が問題」と他の人を見たり、「この問題」「あの問題」と周りにその原因を見ようとするのですが、この箇所が語るのは、私達の背後に「目には見えないが、歴然とした霊的な戦いがある」ということなのです。

「しかし、あなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」(ヤコブ3章14〜16節)

「悪魔」とか「霊的な戦い」などの言葉にピンとこないかもしれませんが、私達の中から出てくる妬みや敵対心は悪霊と直接関わりがあるのです。もし私達がそれらをそのままにしておきますと「悪霊に属する者」となってしまうのです。その具体例が、今日のところに出てくる「祭司長たち」なのです。

「ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。」(マルコ15章10節)

「妬み」により、イエス様を一番に出迎えなければならない彼らが、民衆のイエス様人気に妬みを感じている・・。今まで自分の周りにいた人たちが別の人に流れて行くと、妬ましい気持が起き、再度自分の方に引き寄せたいと思う衝動に駆られるのではないでしょうか。 神様に一番近く、神の教えを説く者がその思いに囚われてしまい、この様な酷い事になったのです。

「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」(ヨハネ11章48節)

自分達の身の危険も感じ、人々がイエス様のもとに行ってしまうのを見て、彼らはイエス様を「亡き者にしよう」となっていくのです。私達の内にも同じ「根」があります。私達もこれらのものが出てきた時に「主よ、これを清めて下さい」と早めに取り除く事が必要です。イエス様はその為に来て下さったのです。イエス様は、これら人々のさまざまな思いの中で十字架に掛けられました。いや、むしろイエス様は十字架の道を敢えて受け取り、進んで行って下さったのです。

十字架上の愛の言葉

「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。彼らが生木にこのようなことをするなら、枯れ木には、いったい何が起るのでしょう。」(27〜31節)

背中を鞭で打たれ、頭にいばらの冠をかぶらされ、十字架を背負い歩き、ゴルゴダの丘に向かうイエス様の悲惨な姿を見て人々は嘆き悲しみます。ところがイエス様は「自分の事を悲しんでくれてありがとう」ではなく、『自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい』と言っているのです。これは「あなた方がこれから受けなければならない事をもっとよく考えなさい。わたしがこの十字架刑を受けなければならない理由を考えなさい。罪を犯した事のない神のひとり子が、この裁きを受けなければならないのならば、あなた方に迫っている裁きがどいうものであるのかを考えなさい」と言っているのです。

「そして、人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9章27〜28節)

人間は誰でも必ず一度は死にます。それと同じ確実さを持って、この地で歩んだ歩みにより裁きを受けるます。私達は人から受けた傷はよく覚えていますが、自分がした事は直ぐに忘れてしまいます。人間は当然行った事の責任と報いは受けなければならなりません。「その時の悲惨を考えなさい」とイエス様は言っているのです。

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは、右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」(33〜34節)

両手足に釘が打ちこまれ、3点に全体重が集中し、段々と息絶えていく訳です。人間の弱さと惨めさと不幸と悲しみ、それを合わせたのが十字架と言えるかもしれません。ところが、その最も悲惨と思われる場所において出てきた言葉が、『父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。』という言葉でした。女性たちに向かって「私の事で嘆くのではなく、もっと自分達の事を考えなさい」と言われたイエス様は「この私を十字架につけた彼らは、分からないからこの事をしているのです。だから赦してあげてください」と言うのです。悲惨な醜い姿の中で、イエス様には愛の勝利宣言がありました。自分を十字架に付ける者を覆い尽くす「愛の言葉」があったのです。

「民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。」(35〜39節)

ところが彼等はこの状況を見ても、またイエス様の言葉を聞いてもイエス様を罵るだけでした。しかしこの中でたった一人だけイエス様の言葉を真剣に受け留めた人物がいました。共に十字架に付けられていた犯罪人でした。最初は彼もイエス様に対し悪口を言っていた事が記されています。ところが、この言葉を聞いた彼は心の琴線に触れたのでしょう。

「ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(40〜43節)

もっとも神様から離れていたと思われた人物が、この出来事の中でイエス様の心を本当に理解する者となったのです。

私達はイエス様が十字架に掛かったという「表」だけを見て、なかなかイエス様の心の中を見る所まで行かないのではないでしょうか。イエス様が『自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい』と言われたほどの者として自分を見ているでしょうか。 イエス様がその悲惨を受けなければならなかったのは何の為であったのでしょうか。

ある時、イエス様の所に姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られます。「律法ではこの様な女は石打の刑に処せられると書れていますが、あなたはどうしますか」とパリサイ人たちはイエス様を問いただしました。イエス様は「あなたがたの内の中で罪の無い者から彼女に石を投げなさい」と言われ、その言葉に誰もこの女性に石を投げる事はできませんでした。最後にイエス様だけが残り『わたしもあなたを罪に定めない』と言われました。なぜでしょうか。それはイエス様は「私はあなたのために十字架に掛かるから、私もあなたを罪に定めない。その罪は私が背負う」とそう言って下さっているのです。この心をもっともっと深く味わい知らせて頂きたいと思います。

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリントII 5章20〜21節)

神は罪を犯したことのないイエス様を私達の代わりに罪とされました。ですからキリストは十字架の罰を受け、死にまでも従って下さったのです。それは私達がこの方にあって義とされ、神の前に正しい者とされ、神の赦しと神の愛を受ける者となるためだと言っているのです。本来なら私達が神様の前で「私達を救って下さい」と懇願するべきでしょう。しかしそうではなく、神様の方から「わたしがあなたのために救いの道を備えたから、受けとってくれ」と懇願しているのです。逆転した愛がここに交錯しているのです。『父よ。彼らをお赦しください』『むしろ自分自身のために泣きなさい』と言われるイエス様の心に私達はもっと触れたい。そして私達を愛し、受け入れて下さった神様の大きな愛を受けて、この強盗の様に変えられていけたらと思います。

彼がした事はたった3つの事でした。第1は『おまえは神をも恐れないのか』と神様を認めたこと。第2は『われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえ』と、神の前に罪人である事を認めました。第3は『あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください』とイエス様に救いを求めたこと。 その彼にイエス様は『あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます』と宣言して下さったのです。本当に罪が赦され、そこから解放されると宣言して下さったのです。

神様は今も私達が神の前に出る時に、私達を癒し解放して下さるのです。この恵みにあずかって頂きたい。十字架がもっともっと深く、様々な方面から心に語り掛けてくれるのです。神様の愛の琴線に触れるまで私達は神様を知っていきたいと思います。
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